1.ヴェーダの最後の哲学
ウパニシャッドは、ヴェーダの最後を飾る哲学的な文献群である。
様々な哲人が登場し、宇宙の根源、人間の本質について様々な思索を展開するが、おおむねヴェーダ祭式と神話に源を持つ。
とりわけヴェーダ祭式において、宇宙を支配する原理・力と見なされたブラフマンについての考究がなされる。
その考究の結実が、ウパニシャッドの代表的な思想、梵我一如の思想である。
ウパニシャッドはしばしば「奥義書」と訳されるように、全般的に神秘主義的な傾向が強く、秘教的である。
ウパニシャッドは、ヴェーダの神話と祭式の伝統の上に成り立ったものであるが、ウパニシャッドの成立は社会の変化と無縁ではない。
それらの思索を展開した人々の中には、ヴェーダの祭式を担ったバラモンとは異なる階級の思想家も何人か現れる。
その思想は、それまでのバラモンの祭式思想、祭式万能主義と明らかに異質である。
ウパニシャッドの思想の特徴は<祭式(yajña)に対する知(jñāna)の優位>である。
ウパニシャッドにおける考究は、完全な祭式を実行するために必要な知識の追究から離れ、知ることそのものの追究へ力点が移動している。
あるものを知り、そのものに成ることによって、そのものの力を獲得することができる。
宇宙を支配する原理を知ることによって、その宇宙原理に自己が同化し自在な境地に到達できると考える。
ブラーフマナが「祭式は力なり」とするのに対し、ウパニシャッドは「知は力なり」とする。
この場合の「知」は「分析的、合理的な知」とは異なる。
ここで追究される知は、概念を論理的に構成して得られる知ではない。
言葉を離れた、体験によって知られる直観的な知である。
「知ること」とは「成ること」であるとみなされる。
瞑想や苦行を通じて、宇宙を支配する神秘力に直接触れ、体験することである。
そのため自己を絶対的な存在と合一させる神秘体験が目指される。
ギリシアにおいては、神話的な思考から脱却することにより哲学が生まれた。
これに対し、インドにおいては呪術的な思考を究極にまで押し進め、神秘的なものの精髄を追究することから、哲学的な思索が生まれた。
この点で、ギリシアとインドの思想は対照的である。
ウパニシャッドと呼ばれるものは長期に渡って作られ続け、新しいものは近代にまで至る。
「108ウパニシャッド」という表現があるように、その数は多く内容も多岐に渡る。
しかし、ヴェーダ時代が終わった後に作られた成立の遅いものは、ヴェーダ学派との関連が曖昧で「新ウパニシャッド」と呼ばれ「古代ウパニシャッド」とは区別される。
思想内容も「新ウパニシャッド」はヒンドゥー教の影響が濃厚で「古代ウパニシャッド」とは異なる。
一般に「ウパニシャッド」という時は「古代ウパニシャッド」を指す。
ヴェーダ時代に属するとされるのは、次のウパニシャッドで紀元前600年代あるいは500年代から数百年かけて成立した。
最古のウパニシャッド『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』は、ブッダより古い時代の成立とされているが、多くはブッダ時代以後に成立した。
『プラシュナ・ウパニシャッド』や『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』の成立は、西暦紀元前後にまで時代が下る。
これらおよそ20ほどの古代ウパニシャッドは、内容と言語により次の三期に分けられる。
2.梵我一如の思想
「梵」すなわち「ブラフマン」と「我」すなわち「アートマン」が同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする。
これが「梵我一如の思想」である。
ブラフマンは、宇宙を支配する原理である。
ブラフマンは、元々はヴェーダの「ことば」を意味する語で、呪力に満ちた「賛歌」、「呪句」を表した。
やがて、それらに内在する「神秘力」の意味で用いられるようになり、さらにこの力が宇宙を支配すると理解され「宇宙を支配する原理」とされた。
アートマンは、私という一個人の中にある個体原理で、私をこのように生かしている「霊魂」であり、私をこのような私にしている「自我」、もしくは「人格」である。
元は、ドイツ語のAtem「息、呼吸」と同じ語源から生まれた語で「息」を意味した。
ここから「生気」、「霊魂」、「身体」、「自己自身」、「自我」という意味が派生し、ついには「個体を支配する原理」とみなされるに至った。
この語は、さらに「ものの本質・本体」という意味でも用いられる。
この宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると、瞑想の中でありありと直観することを目指すのが梵我一如の思想である。
これによって無知と破滅が克服され、永遠の至福が得られるとする。
その代表的な思想家は、シャーンディリヤ、ウッダーラカ・アールニ、ヤージュニャヴァルキヤなどの哲人である。
梵我一如の思想の背景にあるのは、ヴェーダ祭式の「同一視の論理」である。
「同一視の論理」は呪術の論理で、たとえば獲物の足跡に傷をつける猟師のまじないがある。
足跡を獲物の足と同一視して、それに傷をつければ獲物は遠くへ逃げられないと考える。
ヴェーダの祭式では、祭式の場にあるものを神話の世界や自然界の事物と同一視する。
呪術によって、祭場にある祭具などを操作することで、自然を支配しようとするのである。
これに対してウパニシャッドの哲人たちは、同一視の論理を祭式でなく瞑想で用いた。
ウパニシャッドには「AをBとウパースする」という句が多くみられる。
瞑想で、AをBと同一のものとみなして(ウパースして)意識を集中する。
意識の集中により、分別による知を乗り越えて、対象が直観される。
その時、主観は対象の中に入り、対象と融和する。
対象そのものになり、同化する。
同化すれば、それの持つ力が自分のものになる。
こうして瞑想によって対象そのものになり、その対象のもつ力を体得することを目指す。
「太陽はブラフマンである」、「虚空はブラフマンである」などといったものから「食物はブラフマンである」、「思考力はブラフマンである」などと、様々な原理が同一視された。
とりわけ、気息、目、耳、思考力などの生活諸機能が、ブラフマンとの同一視の対象とされた。
ウパニシャッド思想の発展とともに、それらは、個体原理アートマンと宇宙原理ブラフマンの同一視に収束していった。
後に、バラモン思想の主流となるヴェーダーンタ思想は、梵我一如の思想を発展させたものである。
また、大宇宙(梵)と小宇宙(我)の融合合一という考えは、その後の神秘主義思想に繰り返し現れる。
たとえば仏教でも、密教の大日如来の観想による即身成仏に同じ発想がみられる。
※ http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/upanisad.htm 引用
※ http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/upanisad.htm 引用
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