ヤージュニャヴァルキヤ(Ya-jnavalkya ヤージナヴァルキャとも発音される)は、ウパニシャッド最大の哲人で「聖仙」とも称される。
生没年不明だが、およそ紀元前8世紀から紀元前6世紀の人物と考えられている。
ウッダーラカ・アールニの弟子と伝えられ、梵我一如の哲理の先覚者として知られる。
また「自己とは何か」という問題を、初めて体系的に探求した人物でもある。
太陽神から授けられたという白ヤジュル・ヴェーダの創始者でヨーガ哲学の元祖ともいわれ、王仙ジャナカと共に後の仏陀の思想、仏教の道を用意したといわれる。
ヴィデーハ国のジャナカ王の宮廷に招かれた公開討論会において、並み居る論敵を圧倒、最大の論争相手ヴィダグダ・シャカーリアを論破して、千頭の牛を獲得したとのエピソードをもっている。
ヤージュニャヴァルキヤは『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』など初期のウパニシャッド(奥義書)に登場する。
彼の哲学は真の自己、すなわちアートマン(自我、仏教用語では「真我」)を知ることにより、輪廻から脱出してブラフマン(梵)と合一するというものである。
アートマンとはいかなるものかと問われ、ヤージュニャヴァルキヤは
「あなたは見るという作用の主体たる『見る者』を見ることはできません。
聞くという作用の主体たる『聞く者』を聞くことはできません。
思うという作用の主体たる『思う者』を思うことはできません。
知るという作用の主体たる『知る者』を知ることはできません」
という。
そして
「万物を認識する認識主体を、どうして認識することができるのでしょうか。
だからこれを『ではない、ではない、のアートマン』というのです」と説く。
「ではない」をサンスクリットでは「ネーティ」という(日本語で「非也」と表現されることもある)。
真の自己、アートマンは純粋の認識主体である以上「~ではない、~ではない」(ネーティ、ネーティ)という方法でしか表現できない。
「~である」と表現すれば、認識の対象へと下落してしまうからだ。
この考えによれば、私の身体は真の自己ではない。
私は私の身体を知覚できるから、認識対象であって認識主体ではない。
また私の思考も認識対象であって認識主体ではない。
アートマンは不可捉であるということになる。
ネーティ、ネーティと自己の否定を重ねれば、意識は特定の何かに向かうことがなくなり、やがて自己と宇宙が一体として感じられる境地にまで至る。
その境地こそが、ブラフマンとアートマンの合一、梵我一如の境地である。
※Wikipedia引用
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