2017/07/26

弥生時代(5)



●道具類
弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器・鉄器・土器などに分けることができる。

●石器
石器には、縄文文化より伝わった打製石器を中心とする一群と、朝鮮半島無文土器文化より伝わった磨製石器の一群(大陸系磨製石器)がある。

打製石器は、石鏃やスクレイパー(削器・掻器)など、狩猟具(武器)・利器として用いられた。

石材としては、サヌカイトなどの安山岩系の岩石や黒曜石などが主に用いられ、縄文時代からの製作技術を受け継いで作られた。

一方、水稲農耕とともに流入した大陸系磨製石器と呼ばれる石器群には、蛤刃磨製石斧や抉入片刃石斧といった工具や、石包丁や石鎌などといった農具があり、水稲農耕技術の受容にともなう開墾や耕起、収穫に用いられる道具として、弥生時代になって新たに導入された道具類である。

●青銅器
青銅器は、大陸から北部九州に伝えられた。

北部九州を中心とする地域では、銅矛や銅剣・銅戈などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸がよく知られる。

北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始された。

一方、銅鐸も半島から伝わったと考えられるが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわからない。

出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから、実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高い。

この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかる。

弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できる。

一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられるが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌を内部につるして鳴らすものとして用いられたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられている。

また、鏡も弥生時代前期末に渡来した。

中期末以降列島でも生産されるようになったが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられた。

このように、大型の青銅器は出現当初を除いて殆どが祭祀に用いられるものであった。

この他に、鋤先などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器なども見られるが、大型の青銅器に比べて非常に少量である。

青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器など、一部を研ぎ出すことにより製作される事例が、僅かに存在する)を除き、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産された。

青銅器の鋳型は、列島での初現期にあたる弥生時代前期末~中期前半期のものは、主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られる。

中期後半までに、青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになる。

平形銅剣を除く殆どの武器形青銅器は、これらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられている。

一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられているが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多い。

●鉄器
鉄器の初現は弥生時代早期とされ、弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化がおこると、後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。

鉄器は耐久性や刃の鋭さから、主に利器、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。

出現当初は、鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現すると、徐々に西日本一帯へと波及していった。

この他に小刀(刀子)や鉄鏃、ノミ状工具などの存在が知られる。

この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。

弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている(ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためには極めて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。

北部九州、特に福岡市周辺地域では、弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。

一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では、弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。

瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。

弥生時代後期には、玄界灘沿岸地域の遺跡から鉄器が大量に出てくるが、瀬戸内海沿岸各地方や近畿地方の遺跡からは、ごく僅かしか出てこない。

つまり玄界灘沿岸地域が、鉄資源入手ルートを独占していたと推定されている。

それゆえ、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って戦争が起こったのではないかと考えられているが、今はまだ考古学的に立証することができない。

戦争が起こったと仮定すれば、近畿地方の大和勢力を中心に、広域の政治連合、例えば邪馬台国連合のような同盟ができあがっていたことが想定されている。

●土器
土器は弥生土器と呼ばれ、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。

弥生土器の初めは、板付Ⅰ式土器(後に遠賀川式土器)であり、西日本はもちろんのこと東北の青森県にまで伝播した。

弥生文化が、本州の北端まで広がったことを物語る土器である。

縄文時代の縄文土器と比べ装飾が少ないとしばしばいわれるが、実際に装飾が少ないのは前期段階の土器と中期以降の西日本、特に北部九州の土器で、その他の地域・時代の土器にはしばしば多様な装飾が施される。

器種として主要なものに甕・壷・高坏があり、特に壷は縄文時代には一般化しなかった器種で、弥生時代になって米が主要な食糧となったため、貯蔵容器として定着したと理解されている。

土器の生産は集落ごとに行われ、集落ごとに自給自足によりまかなわれたと漠然と考えられているが、土器生産に関する遺構は殆ど事例がない。

最近、土器の焼成失敗品や、強い熱を受けたために器壁が薄くはじけるように割れた土器に注目して、大規模な集落で土器が集中的に生産された可能性が提起された。

また、土器の形態は地域性を極めてよく表すため、その特徴に着目して他地域から搬入された可能性の高い土器と在地の土器とを峻別して、土器はこれまで思われていたよりも、ずっと多量に移動している可能性が指摘されている。

木器は、主に食膳具や耕起具として使われた。

特に食膳具には、漆を塗ったり細かな装飾を施すなどした優品が多いが、木器は腐るために良好な状態で出土する例は稀であり、詳しいことは未だよくわかっていない。

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