2017/12/02

殷(2)

滅亡後
殷王朝で作られた后母戊鼎(チャイナ語版)は、これまでにチャイナで見つかった青銅器のうち、最も重い物である。紂王の子である武庚は、周の武王に殷の故地に封じられた。武王の死後、武庚は武王の兄弟、管叔鮮、蔡叔度、霍叔処とともに反乱を起こした(三監の乱)が失敗し、叔度以外誅殺された(叔度は追放されたがその子が継いだ。)。その後、禄父(武庚)の伯父の微子啓(紂王の兄)が宋に封じられ、殷の祭祀を続けた。微子啓には嫡子が無かったため、同じく紂王の兄の微仲衍が宋公を継ぐ。異説もあるが、その微仲衍の子孫が孔子とされ、その後の孔子の家系は世界最長の家系として現在まで続いている。

紂王の叔父箕子は、朝鮮に渡り箕子朝鮮を建国したと中華人民共和国では主張されているが、チャイナ人によって朝鮮が建国されたことになってしまうため、韓国側は檀君朝鮮こそ初の王朝であり、箕子朝鮮は単なる後世の創作であると主張している。

商人という言葉は、商(殷)人が国の滅亡した後の生業として、各地を渡り歩き、物を売っていたことに由来するとされる。そこから転じて、店舗を持たずに各地を渡り歩いて物を売っていた人を「あれは商の人間だ」と呼んだことから「商人」という言葉が生まれたというものである。ただし、白川静は「商に商業・商賈の意があるのは、亡殷の余裔が国亡んでのち行商に従ったからであるとする説もあるが、商には賞の意があり、代償・償贖(とく)のために賞が行なわれるようになり、のちにそのことが形式化して、商行為を意味するものとなったものと思われる」と否定している。

滅亡年について
周が殷を滅ぼしたのは、具体的に何年の出来事かを推定する作業が進められている。チャイナの夏商周年表プロジェクトは、この出来事を紀元前1046年であるとした。古い説では『竹書紀年』に武王から幽王(西周最後の王)まで257年という記述があり、幽王が死んだのが紀元前771年のことなので、殷が亡んだのは紀元前1027年の出来事となる。また『漢書』には周は867年続いたという記述があり、これからは紀元前1123年の出来事となる。それ以外にも多数の説があり、殷滅亡を一番古い時代に置くのは紀元前1127年、最も新しい時代では紀元前1018年となっている。

政治
殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王は自らの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。しかし、祭祀のために戦争捕虜を生贄に捧げる慣習が周辺諸氏族の恨みを買い、殷に対する反乱を招き、殷を滅亡に導いたとする説もある。

軍事
殷王朝の軍隊は氏族で構成され、殷王による徴集を受けると普段は農耕に従事していた氏族の構成員たちが武器を取り、出征する軍隊を編成した。この軍隊を指揮するのは、各氏族の貴族だった。強大な軍事力を誇った殷王朝は、度重なる戦争に勝利を収めるために、兵種、戦法、軍備などを発展させていった。

その中で特筆すべきは、「三師戦法」という大量の戦車を活用した戦術である。殷王朝が歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍制に変化するのは、殷の支配域が拡大して黄河中下流域や中原など、戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場になっていったからと考えられる。『呂氏春秋』によると、殷の湯王が夏の桀王を討った時「良車七十乗(輌)、必死(決死隊)六千人」があったといい、「令三百射」、「到三百射」と記載された甲骨文があることから、一度に戦役に出撃した戦車は300輌にも達していたことが伺える。

戦車は、歩兵と共同して戦いを行った。1輌の戦車には3人の兵が乗り、左側の兵士が弓を、右側の兵士が矛や戈を持ち、中央の兵士が御者となった。戦車部隊は5輌が最小単位で、戦車兵15人と付随する歩兵15人からなっていた。100輌の戦車と戦車兵と歩兵がそれぞれ300人、25輌の戦車と戦車兵と歩兵が75人というように、戦車が5の倍数で戦車兵と歩兵は15の倍数で編成されていた。戦車の運用法では「三師戦法」が編み出され、これは軍隊を左、右、中の3つの部隊に分け、互いに連携して敵に対処するというものだった。

軍備は戦車戦に適した戈や矛、弓矢、木製の盾、刀などが使われた。その他、殷王朝では戈と矛を合体させた戟が発明されている。戈や矛の材質は青銅製で、弓矢の鏃の材質は石器や骨器なども使われた。防具については戦車兵が立ったままの状態で戦車に乗っていたため標的にされやすく、そのため重装化が進んだ。殷代の鎧は皮革から、兜は青銅で作られている。また、敵の弓矢から身を守るために盾も戦車には用意されていた。
※Wikipedia引用

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