第八図
記によると「大穴牟遲命・・・御祖(みおや)の命は子に『須佐之男命のいる根の堅洲国へ行きなさい。あの大神がいいように取り計らってくれるだろうから』と言った。そこで命ぜられた通り、須佐之男命のもとを尋ねて行った。・・・大神は黄泉比良坂まで追ってきて、遙かに遠くから大穴牟遲命に呼ばわった。・・・国作りを始めた。」
「それ以降、大穴牟遲命は少名毘古那神と二神相並んで国を作り固めた。だが後に、少名毘古那神は、常世の国に行ってしまった。」ともある。
大国主命が生きたまま泉の国に行き、また還ってきたのは、この記載の通りである。とすればこの頃、まだ大地と泉は離れておらず、地中から通う道があったのである。黄泉比良坂のことは、第六図を参照せよ。
この後、記によると「天照大御神が「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきながいおあき)の水穂の国は、私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳の命が治めるべき国だ」と言って、天降らせた。この時天忍穂耳命は天の浮橋に立って言った。・・・また天に上って・・・」
また「日子番能邇々藝命がいざ天降りしようとしているとき、天の八衢(やちまた)にいて、上は高天の原を照らし、下は葦原の中つ国を照らしている神があった。」
第九図
記には「天津日子番能邇邇藝命は、天の石座を離れた。天にたなびく雲を押し分け、神威によって道を押し開いて天の浮き橋に立ち、ついに筑紫の日向の高千穂の久士布流多氣に降り立った。」とある。
天の浮橋の行き来は、初め伊邪那岐・伊邪那美の二神が天地を往来したときには近い距離だったように思われるが、この皇御孫命の天降りの様子は非常に遠いようであり、次第に天地の間が離れていったと思われる。天の浮橋は天地が相続く筋であるが、天地が離れて行くに従って次第に細く薄くなって、皇孫の天降るまではまだあったけれども、天降って後はとうとう切れて断絶し永久に天地の行き来はできなくなった。これは喩えて言うと、人の子が生まれるまでは臍の緒で胞衣とつながっているのが、誕生後は切れて離れるようなものである。これらは単に状況が似ているというのでなく、意味合いもそっくりだ。皇孫の天降ったのは、子供が生まれたようなものだ。二柱の神が生んで作り、天照大御神が生まれたこの国の君主が決まって天降り治めたのは、この天地が完全に成り終わったのである。これは木や草の実が熟するのと、全く同じ理屈だろう。
これからしても皇国が天地のもとであり、皇孫の命が四海万国の大君であることは明らかで、尊貴などと言うのもまだまだ平凡な表現である。それを世の人々は、いたずらに外国の妄説に惑わされ皇国がこれほど尊いことを知らない。たまたまこういうことを聞いても、かえってそれを論破しようとするのは、どうした曲がった心だろうか。
○天の浮橋のことは、上記の書物などを見ると古事記伝にも言われているように一つだけだったのでなく、あちこちにあったらしい。たぶん筋は一筋だったが、その端が地上に着くところで幾筋にも分かれていたのだろう、それともその筋が下の方では分かれていたのかも知れない。そういう細かいことは分からない。いずれにしても、全体の様子は変わらない。
○地と泉が断絶した時期がいつかということは分からないけれども、天地が離れた時代に準じて、おおよその時期は推測できる。大国主命が生身のままで黄泉の国とこの世を行き帰りしたことは、上述の通りである。その後、長い時間をかけてこの国を作り固め、経営した。しかし出来上がった後は皇孫の命にこの国を譲り、八十坰手(やそくまで)に隠れてご奉仕するというのは、この世を去って黄泉の国に住み幽事(かくりごと)を掌るということで、普通の人の死と同じように聞こえるので、この時には、もう地上から黄泉に通う道は途絶えていたのだろう。これも細かくは知ることができない。普通、世の人々が死ぬ時には屍はこの世に留まり、魂だけが黄泉に行くので、この国から続く道がなくても行けるのだが、生き身のままで行き来するのは、その道がなければならないはずである。
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