第七図
天は日である。その中にある国を高天の原という。
泉(よみ)は月であって、その中にある国を夜之食国(よるのおすくに)という。
書記に「そこで伊邪那岐大神は言った。・・・筑紫の日向の阿波岐原(あわぎはら)に到って、禊祓(みそぎはらい)をした。・・・このくだり、八十禍津日(やそまがつひ)の神から速須佐之男命まで、十柱の神は、身を滌(すす)いだことによって生まれた神である。・・・天照大御神に『お前は高天の原を治めよ』と言った。・・・次に月讀命に『お前は夜之食国を治めよ』と言い、次に須佐之男命に『お前は海原を治めよ』と言った。」とある。
高天の原は、天にある御国である。
書紀によると「大日孁貴(おおひるめのむち:天照大神のこと)は・・・この時、天地はまだそれほど離れていなかったので、天の柱を通って天上に上がった」という。
天と地と泉は、初めは一体であったのが次第次第に分かれ遠ざかっていったのだが、この時にはまだそれほど遠くなかったことは、以下の図を見て理解すべきである。
○また書紀に「伊弉諾尊は天に登って報告を済ませ、仍(そのまま)日の少宮(わかみや)に留まった」という。
日の少宮が天上にあることは「仍留」の字で明らかである。
○天は、漢国などでは虚空の他に何か実体があるものではなく、あるいは理屈付けをし、あるいは「気」について言うだけである。また色々と何かありそうに説くこともあるが、それも実体のあるものとしては言わない。だが皇国の古い伝えでは虚空と天は別であって、天はもともと葦牙(あしかび)のように萌え上がるものが成ったものなので、はっきりした実体があり高天の原と言って、その国もある。天竺などで言う天は高天の原に似て実体があるけれども、それはみな妄説だから論ずるに足りない。
ところで、高天の原が虚空の上にあると考えるのは表面的な理解で、誰でもそう思うだろうが、その高天の原を治める天照大御神は今現実に空に見える(太陽のこと)のに、高天の原というものは見えたことがない。また大御神は大地を廻って、下の方へも回り込むので高天の原は上にあると言い切ることはできない。たとえ高天の原はあまりに遠いので見えず、大御神はその光が強いから形だけが見えるといっても、地の下をも廻っているのをどう説明しようか。異国の説にある天のように、高天の原は大地を包んで上下四方全体にあると言っても、かの葦牙のように萌え上がって天になったというのに会わない。だから、この高天の原のある場所は、どう考えてもはっきりしない。
そこで私、中庸がつくづく考えてみて、異国で言う天はどうであれ、わが古典で天と言い高天の原というのは虚空でもなければ虚空の上にあるのでもない。日が即ち高天の原なのだろう。とすると日は天照大御神ではない。その治める国であって、大御神は日の中にいるのだ。というのは、記の神武天皇の段で「私は日の神の子孫だから、日に向かって戦うのは良くない」とあり、これによって日と日の神とは別であることが分かる。日の神とは日を治める神ということで、高天の原を治める神というのと同じである。
須佐之男命が天に登った時、大御神は男のような装いをして待っていた。このことから、人のような体を持つ神であったことは明らかである。八咫鏡をこの大御神の御象(みかた)と言うのは、大御神自身は人のような姿だが、光が強いために遠目には丸く見えるのだとも言えるが、それはこの地上から見た時のことであり、鏡を作ったのは高天の原でのことなのだから、御形を写すのであれば、その実際の姿を写すべきだろう。どうして、この地上から見た姿を写す必要があるだろう。
そもそも、この鏡を大御神の御象だというのは書紀の一書にあるだけで、その他のどの一書にもなく、この記にも出ていない。とすると、この鏡は天照大御神の姿に似せたのでなく、姿を映すためのものである。それは大御神が天の石屋に籠った時、この鏡を見せて大御神自身の姿が映っているのを見て、自分と同じぐらい尊い神が訪問したのだと思わせるために作ったものだった。かの書紀の一書の説は「姿を映す」ということと「姿を写す」ことを取り違え、誤って伝えたものである。
ところで日は、かの葦牙のように萌え上がるものが成ったものであり、天というのは、すなわちこれである。また、これを高天の原と呼ぶのは古事記伝にある通り、その天にも、この地上のように国があるのである。ただし、この地上の国はみな地球の外表面に貼り付いたように存在するが、高天の原は内部にあるようだ。というのは記で天若日子が雉を射上げた矢は、高天の原にいた高木の神のところにまで届き、それを射上げた時の穴から突き返したとあるからだ。内部に国があることを、この地上の例から疑うべきではない。
物の理は際限なく深く霊妙だからである。天は元来、その質がこの地上とは異なっている。清らかに透き通っているので、内側の国に住む大御神の光も外へ透き通って、虚空も大地も、あまねく照らすのである。とすると日の光と思っているものは、実は日の光でなく天照大御神の放つ光輝である。
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