2017/12/06

アナクサゴラス「ヌース」(理性)


アナクサゴラース(Αναξαγορας、Anaxagoras、紀元前500年頃 - 紀元前428年頃)は、古代ギリシアの自然哲学者。イオニア学派の系譜をひくとされる。小アジア・イオニアのクラゾメナイ出身。紀元前480年、アテナイに移り住む。アナクサゴラスは、イオニアからアテナイに哲学を持ち込んだ最初の哲学者である。
物体は限りなく分割されうるとし、この無限に小さく、無限に多く、最も微小な構成要素をスペルマタ」(spermata、種子の意味)と呼んだ。さらに、宇宙(世界)やあらゆる物質は、多種多様な無数のスペルマタの混合によって生じるとし、宇宙の生成において初めはただ、ごちゃまぜに混合していたスペルマタがヌース」(nous、理性の意味、ヌゥスとも)の働きによって次第に分別整理され、現在の秩序ある世界が出来上がった、というのが根本思想である。

太陽は「灼熱した石」であると説き、太陽神アポローンに対する不敬罪に問われた。この時は、友人であったペリクレスが弁護に立ったため軽微な刑で済んだが、結局アテーナイを去ってラムプサコスに移り、そこで死去することとなった。

アナクサゴラスは、当初は幾らかの財産を持っており、地元での政治的成功も見込まれていたが、知識の探求の妨げになるとして地位も財産も自ら放棄したと言われている。ヴァレリウス・マキシマムによる伝承によると、彼が長い航海から帰ると、その財産が失われていた。それを知った彼は「仮に残っていたとしても、自ら放棄しただろう」と言ったという。ローマ人は、この言葉を「最高の知恵のあり方を示している」と評している。彼はギリシア人であったが、イオニアの反乱でクラゾメナイが鎮圧されていた間は、ペルシアの軍隊にいたようである。

壮年期(紀元前464461年、36歳頃ー39歳頃)に、当時急速にギリシア文化の中心に成りつつあったアテナイに移り住んだ。その地で、およそ30年の歳月を過ごすことになる。アテナイの政治家ペリクレスは、彼を敬愛し褒め称えた。また詩人のエウリピデスの科学と人間愛に対する熱意は、彼に導かれたものである。

アナクサゴラスは、イオニアの哲学と科学的探求の精神をアテナイへと齎した。彼は天体や隕石の観察から、宇宙の秩序に対する新しい説を提唱した。彼は日食、月食、流星、虹そして太陽に対する科学的な説明を試みた。太陽は燃え盛る巨大な石の塊であり、ペロポネソス半島よりも大きいという説を唱えた。また、月が太陽の光を反射して光っていると唱えた最初の人物でもある。月には山があるとも唱えており、人が住んでいると考えていた。また、天体は地球から分裂した巨大な石の塊であり、高速の回転によって燃えているのだと主張した。星も太陽と同様、燃え盛る石の塊であるにもかかわらず、私たちがその熱を感じないのは、星々が地球からとてつもなく遠くに離れているためであると説明した。また、地球は平坦であり、その下にある「強い」空気によって支えられて浮かんでいて、この空気の乱れが地震の原因であると考えた。

しかし、これらの考察のため、アテナイの人々は彼を不敬の罪で攻め立てるようになる。ディオゲネスの伝えるところでは、クレオンによって不敬の罪で訴えられたとある。一方、プルタルコスによれば、ペロポネソス戦争での失策を受けてアテナイ市民から批判を受けていたペリクレスが、自らの保身のためにアナクサゴラスをランプサコスに送ったとある。

ディオゲネスによると、紀元前450年頃(50歳頃)、アナクサゴラスの裁判の際にペリクレスが彼を弁護したとあるが、それでもアナクサゴラスはアテナイからトローアスのランプサコスへと隠居せざるを得なかった(紀元前434433年、66歳頃)。その地で、紀元前428年頃、約72歳でその生涯を終えた。ランプサコスの市民は彼を追悼して「知性と真理」の祭壇を築き、彼の命日を記念日として長年に渡って供養した。アナクサゴラスは哲学に関する一冊の本を書いたが、6世紀にキリキアのシンプリキウスが保存した一部分の断片しか現存していない。

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