http://www.geocities.jp/timeway/index.html 引用
夏王朝が滅んだ後を継ぐのが殷王朝で、ここからが確実に考古学上証明ができる。邑に話を戻すと、邑の住民は祖先を同じくする氏族集団だった。もしくは複数の氏族集団が、一つの邑を建設した事があったかもしれない。邑は都市国家と言って良く、ギリシアで言うポリスのようなもの。
夏王朝が滅んだ後を継ぐのが殷王朝で、ここからが確実に考古学上証明ができる。邑に話を戻すと、邑の住民は祖先を同じくする氏族集団だった。もしくは複数の氏族集団が、一つの邑を建設した事があったかもしれない。邑は都市国家と言って良く、ギリシアで言うポリスのようなもの。
やがて邑の中でも、他の邑に比べて規模の大きく軍事力が強いものが出現してくると、その強い邑を中心にして邑の連合体が生まれる。これが最初の王朝とされている殷である。「殷」というのは邑の名前で、これが盟主となって他の邑を緩やかに統合した。殷というのは後から付けた名前で、当時は商と呼んでいた。この商の時代が、前1600年頃から前1027年までである。
殷の遺跡が殷墟で、王の墓が発掘されている。逆ピラミッド型に掘った頂点に、王の遺体が埋葬してあり、王の棺の下に犬が埋めてある。犬は、あの世への案内役だったらしい。王以外にもたくさんの殉死者が埋葬され、青銅製の酒器もたくさん並べてあるのは、あの世でも王を守るためで、兵士も所々に別に穴を掘って埋められ戦車もある。これ以外で、目に付くのが生首だ。殉死者は身体があって服も着て埋葬されているのに、それとは別に生首だけがゴロゴロ並べられている。これは神への生け贄か、魔除けであろう。このように数百人、多い場合は千人以上の殉死者、生け贄などが一緒に埋葬されているのが殷王墓で、相当な権力を集中していたことが分かる。ただし宮殿などは藁葺きみたいのもので、壮麗な宮殿ではなかった。
殷の政治の特徴は、神権政治である。古代社会が、どこでも政治と宗教が一体化しているように、殷もそうだった。殷の王は占いで神々にお伺いを立て、政治を執り行った。宇宙には様々な神々や、悪霊や妖怪やそんなモノで満ち満ちていて神々の機嫌を損ねないように、また悪霊たちの災いに遭わないように彼らは真剣だった。「道」という字は「しんにょう」に「首」が付いている。「しんにょう」は、それだけで道の意味があるが、なぜ「首」がくっついているか。様々な説があるが、興味深いのが次の説だ。
邑がある。邑の門を出ると、ずっと道が農地や遠くの邑に続いている。当時は今みたいに土地が開けていないため、原生林もあるし未開の民族も、邑がないところにはたくさんいたし、猛獣もいる。何より、そういう原野には訳の分からない悪霊、魑魅魍魎がたくさんいる。それら魑魅魍魎どもが、門から邑の中に入ってこないように、邑の門の下に魔除けとして人の生首を埋めたという。門を開けて生首の向こうに道は始まる。道に出るには生首を跨いでいく。跨ぐことが、外に出る人の魔除けのまじないでもあるのだという。この説が正しいかどうかは分からないが、殷の王墓に生首がたくさん見つかっているのを考えると、当たらずといえど遠からずという気がする。古代チャイナ人々の生活感覚が伝わってくるような説である。
このように、古代人は神々に取り囲まれて生きていたから、政治も神々にお伺いを立てた。殷の神様は、大きく分けると三種類ある。一つが天帝。神みたいな感じで「天」という言葉を使うことがあるように、日本の文化の中にも流れ込んでいる感覚である。もう一つが、自然現象を神にしたもの。最後が祖先神。チャイナ文明を理解するのに、これは重要であろう。祖先神崇拝は、その後も生き続け朝鮮や日本の文化の中にも深く浸透している。殷の人々は、死んだ祖先はそのまま神になって存在し続けていると考えた。どこか上の方にいて、常に子孫の行動を見ながら、気にくわないことをすれば祟る。祖先神が最も子孫に望むことは、常に祖先神を崇めて祀ってくれること。これをサボると祟る。だから殷の王達は、いつお祭りをしたらいいかしょっちゅう占っていた。
祖先神崇拝は後に儒教に引き継がれ、さらに仏教にも影響を与えた。日本の仏教儀式の多くは儒教化されていて、祖先神崇拝がたっぷり入り込んだものとなった。例えばお盆には、お墓参りにいって線香立てるが、あの線香は元々が儒教のもので、天界にいる祖先の霊があの線香の煙をたどり、我々の元に帰ってくるという考えだ。そもそも仏教の理論からすれば、祖先の霊などは存在しない。どこかに輪廻転生しているから、今生きている我々も前世では誰かの祖先だったかも知れないのである。
殷王が占いに使ったのが、牛など大型動物の肩甲骨や亀の甲羅であった。例えば亀の甲羅の場合、お腹の方の甲羅に丸い溝を幾つも掘り、その溝に木の棒などで火を押しつける。こうするとヒビが入り、このヒビの形や向きで占いをし、結果を甲羅や骨の裏側に刻んで記録した。この文字が甲骨文字で、後の漢字の原型となった。殷代の遺物として、もう一つ大事なものが青銅器である。
殷の最後の王が紂王(ちゅうおう)で、有名な「酒池肉林」のルーツである。紂王は自分の庭園に池を作り、その池に水の変わりに酒を満たした。庭園の木には、木の実の代わりに肉をぶら下げた。池で美女たちと戯れて遊び、池から上がると肉をたらふく食べた、という話だ。紂王は人民から税を搾り取り、自分だけ贅沢三昧をした。これは恐らく後付けで「紂王は暴君だったため滅ぼされた」というストーリーが出来上がった。
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