カッシオペイアへの罰
一番有名なエピソードは、エチオピア王妃のカッシオペイアへの罰であり、自らの美貌は女神にも勝ると豪語したカッシオペイアに対し、海の怪物ケートスを送り込んでエチオピアを滅ぼそうとした。ポセイドーンの怒りを鎮めるためにアンドロメダを生け贄として捧げるのだが、通りかかったペルセウスによってアンドロメダは救出され、ケートスも彼の持っていたメドゥーサの首によって石化して退治された。
ラーオメドーンへの罰
報酬を支払う約束を反故にしたトロイア王ラーオメドーンにも、海の怪物を送り込んでいる。この海の怪物は巨大であり、凄まじい力を持っていたが、通りかかったヘーラクレースによって退治された。ヘーラクレースは、わざと呑み込まれてこの怪物の胃袋に入り込み、三日間も腹の中を暴れ回って内臓を破壊し、この怪物を討伐したのであった。
オデュッセウスへの罰
オデュッセイアの放浪の原因を作ったのも、彼の怒りであった。ホメーロスの『オデュッセイア』では、キュクロープスのポリュペーモスはポセイドーンの子といわれる。ポリュペーモスは恐ろしい巨人であったが、オデュッセウスは得意の策略で彼を盲目にし、事なきを得た。このことに怒ったポセイドーンは、オデュッセウス艦隊に嵐を送り込み、オデュッセウスは海上を流されて更に放浪する運命となった。
パイエケス人への罰
オデュッセウスの帰郷を手助けしたパイエーケス人にも、罰を下している。巨大な船でオデュッセウスを故郷イタケーへと送り返した帰り、ポセイドーンはその船を石に変えてしまった。同時に船から根を生やして海底に突き刺し、沈まないようにし、石と化した船をオデュッセウスを助けたことへの戒めとして、海上で固定した。これによりパイエーケス人は、二度と客人の帰郷を助けることをしなくなった。
信仰
ポセイドーンは海洋を支配する神であったため、海上交易が盛んなイオニア系ギリシア人が特に信仰していた。そのため、イオニア人の英雄であるテーセウスは、ポセイドーンが父親の半神半人であったという伝承も残されている。これは、ゼウスを父親とし、ドリス系ギリシア人の英雄であるヘーラクレースに対抗する意味も含まれていた。
彫刻
ポセイドーンは、ギリシア彫刻の多くにおいて堂々とした威厳ある壮年の男性の姿で描かれる。アルテミシオン沖で発掘された古代盛期の青銅像が著名である。この像では、ポセイドーンは裸体で三叉の矛(紛失してしまっている)を構えた立像となっている。しかし、雷霆を投げるゼウスの像であるとする説もあり、これをゼウス像であるとして紹介している書物も少なくない。
イストミア大祭
古代ギリシアでは、2年に1度、古代オリンピックの前後の年に、ポセイドーンを讃えるイストミア大祭という競技会が開かれていた。この大祭は全ギリシア的競技祭であり、古代オリンピック、ピューティア大祭、ネメア大祭と並んでギリシア四大競技会のひとつに数えられた。
元はシーシュポスがメリケルテースの慰霊祭として始めたが、ポセイドーンの息子とも言われるテーセウスが大規模な改革を施した。閉鎖的な夜の儀式に過ぎなかった慰霊祭は、本格的な大競技会へと発展を遂げ、ヘーラクレースが創始したと伝えられる古代オリンピックに匹敵する大祭となった。競技の優勝者には、ポセイドーンの聖木である松の冠が与えられ、像や祝勝歌などが作られた。イストミア大祭はアテナイ人との繋がりが強く、ペロポネソス戦争中であっても、アテーナイ人はイストミア大祭に出場しに来たという。
ローマ神話
ローマ神話におけるネプトゥーヌス(ネプチューン)と同一視された。古代ローマでは、はじめ馬の神として崇拝され、また競馬の神とされた。ローマでは競馬場の近くにネプトゥーヌスの神殿が建てられた(紀元前25年)。祭日ネプトゥーナーリアは、7月23日に行われた。ネプチューンは海王星の名前の由来となった。
※Wikipedia引用
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