アンデスのトウモロコシ
新大陸の諸文明や諸文化は、メソアメリカ文明や北米先住民の諸文化も含め、ことごとくヨーロッパ人(白人)の侵略によって滅ぼされるか変容を余儀なくされてしまったが、アンデス文明の場合、その一部は現代でもまだ根付いている。例えば、地方へ行けばインカ期から続く「アイリュ」と呼ばれる血縁・地縁組織が機能している所もある(殆どが有名無実化しているが)
農具でも斜面の多い土地では、インカ期と殆ど変わらない踏み鋤が用いられている。そして、インカ期に建造されたテラス状の段々畑(アンデネス)が、現代まで継続して利用されている。未だテンジクネズミ(クイ)を食肉用家畜として飼養していたり、ラクダ科動物のキャラバン隊も存在する。トウモロコシから作られた酒、チチャを農耕儀礼などの時に皆で饗するのも、インカ期から見られる習慣である。
ヨーロッパ人による、物質的な征服に続いて行われたのは魂の征服である。キリスト教布教のため、先住民の持っていた独自の宗教は弾圧を受けた。その後、カトリック化が進み、また征服以降しばらく続いた異教徒弾圧などで、アンデス文明に存在した精神世界は徹底的に破壊されたが、それでも形を変え現代でも生き残っている。特に大地の神パチャママへの信仰は、先住民社会に深く残っている。また都市部においても、祭りなどの中にパチャママ信仰に基づく慣習があり、アンデス地域に住む人々に広く浸透している。これら在来の神は、カトリックの聖人と同一視されることが多い。このようなシンクレティズムが、現代アンデス先住民の精神文化の特徴となっている。
生態学的環境
アンデス文明を理解するためには、アンデス地域の生態学的環境を理解する必要がある。この世界的にも独特な生態学的環境は、アンデス文明の発展と深く関わっているからである。アンデス地域、特に中央アンデス地域(現在のペルー共和国と、ボリビア多民族国北部)は、非常に多様な生態学的環境をもっている。南北に長く、東西に狭い地域に標高が高い山々が密接して連なるため、限られた地域に多様な生態系が存在する。ハビエル・ブルガル・ビダルは、アンデス地域を、その生態学的環境と先住民による区分をもとにして、以下の8区に分けた。
・海岸砂漠地帯のチャラ
・山間および海岸地帯に広がる熱帯地域のユンガ
・おおよそ標高3000mくらいまでのキチュア
・標高4000mくらいまでの高原地帯のスニ
・4800mくらいまでの草原地帯のプナ
・それ以上の氷雪地帯を含むハンカ
・アンデス山脈の東側のアマゾン地帯を1000m以下のオマグワ、それ以上のルパ・ルパ
これら生態学的環境の差は、それぞれに地域で行われる生業にも影響を及ぼしており、ユンガ地帯は熱帯産の作物や果物類が、キチュア帯ではトウモロコシも含む多く栽培種が、スニでは殆どの栽培種が育たないため、ジャガイモなどの塊茎類とキヌアなどの雑穀が主として栽培されている。プナは主に牧畜に利用されている。また、これらの異なる生態学的環境を一集団や家族単位で同時に保有し利用を行っており、これがアンデスの文化の特徴のひとつとなっている。
アンデスへの適応
南米に人類が住み始めた痕跡を示す遺跡で最古のものは、1万4000年前という年代測定値を示す遺跡もみられる。確実なのはクローヴィス文化に並行する1万1000年前の基部が、魚の尾びれのような形状の魚尾型尖頭器を用いた狩人たちの遺跡である。チリの首都サンティアゴの南120kmにある、マストドンの解体処理を行ったタグワタグワのようなキルサイトは、この時代の特色を示す遺跡である。やがて、紀元前7500年ころまでに洞窟の開口部や岩陰を利用して生活をする人々が現れ、ペルーのトケパラ洞窟やアルゼンチンのラス・マノス洞窟には、そのような人々の狩猟への願いを表現した洞窟壁画が描かれた。
紀元前5000年頃から農耕・牧畜を行う社会となり、土器の製作、使用を行うようになる直前までを古期という。ペルー北部高地のラウリコチャ遺跡のⅡ期(紀元前6000年~同3000年)に、I期に多かった鹿に替わってリャマ、アルパカ等のラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られ、中央高地のウチュクマチャイ洞窟の5期(紀元前5500年~同4200年)で、やはりラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られることから、ラクダ科動物を飼育しようとする試みがなされ始めたと考えられている。また紀元前6000年頃までには、トウガラシ、カボチャ、ヒョウタン、インゲンマメなどの栽培が開始されたことが、北高地のギタレーロ洞窟出土の植物遺存体などから確認されている。また紀元前3000~同2000年頃から綿、カンナなどの栽培が始まったと考えられている。
諸王国の成立前夜
紀元前2500年頃になると、現在のペルーのリマ市北方のスーペ谷に、カラル(Caral)という石造建築を主体とするカラル遺跡(ノルテ・チコ文明)が現れる。遺跡の年代は、紀元前3000年から2500年ころと推定されている。しかし発掘され現在復元されている遺跡群は、すでに非常に精緻なつくりをしているため、さらに遡る可能性もある(一部、形成期と呼ばれる紀元前1800年以降の遺跡も復元されている)。海岸遺跡は日干しレンガ製が多いが、この時期の遺跡には海岸遺跡の中でも石造建築がある。カラル遺跡からは、かなりの量の魚介類が出土している。
また、ペルー北海岸にワカ・プリエッタの村落跡やアルト・サラベリー、中央海岸のカスマ谷にワイヌナ、中央海岸地帯にアスペロ、同じく中央海岸地帯でリマの北方にエル=パライソといった神殿跡が築かれる。エル=パライソはU字型に建物が配置され、その一辺が400mに達する。一方、山間部では小型の神殿が建てられるようになる。紀元前3000年頃、北高地サンタ川上流にラ=ガルガーダの神殿、紀元前2500年頃には、コトシュ遺跡(ペルー、ワヌコ県)に交差した手をモチーフにした、9m四方の「交差した手の神殿」が築かれた。
いずれも、当時はまだ土器を持たない時代といわれており、土器の誕生以前にこのような神殿群を誕生させたところに、アンデス文明の特徴があるともいえる。王の存在を強く認めるようなものは、今のところ出ていない。アメリカ合衆国の編年では、この時期を先土器時代と区分することもある。紀元前1800年頃になると、土器の利用が始まることが確かめられる。
※Wikipedia引用
※Wikipedia引用
0 件のコメント:
コメントを投稿