周(しゅう、拼音: Zhōu、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、チャイナ古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代においてチャイナ文明が成立したとみられる。
克殷
周の伝説上の始祖は后稷と言い、帝舜に仕えて、農政に功績があったという。古公亶父の時代に周の地に定住したと言われている。
古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴の子の昌(後の文王)が誕生する際に様々な祥瑞が起こり、古公亶父は「わが子孫で栄えるのは昌の子孫であろうか」と言っていた。古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知った太伯と虞仲は、出奔して南の荊蛮の地に赴いた。太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。
昌は後を継ぐと古公亶父の期待通りに周の勢力を拡大させ、殷より西伯に任ぜられる。文王が西伯の地位にあった時に、すでに周は殷を上回る力を備えていたが、文王はあくまで殷の臣下の地位に甘んじた。文王の息子の武王は弟周公旦・太公望・召公奭らの助力を借りて、暴虐が募ったとされる帝辛(紂王)を牧野の戦いで破り、周王朝を建てた。
成康の治
しかし武王は、建国まもなくして死去する。後を継いだ成王は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱)。周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。
成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。成王の後を継いだのが康王である。康王は召公と畢公を左右にして、よく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという。
衰退
その後は徐々に衰退する。10代厲王は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在となった後、宰相の共伯和が太子静(11代宣王)を擁して政治を行った。共伯和の伯をとって、後にこの時代のことを共和と呼ぶようになった。これには別説があり、周定公と召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行ったので共和と言うという説もある。現代で共和制というのは、この別説が由来となっている。
宣王の治世でわずかに周の国勢は回復したが、宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。
12代幽王の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、申の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、褒姒の子の伯服(伯盤)も殺された。そこで、携王が即位した。これに反対する諸侯は、王子宜臼を擁し、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ移り、平王を立てた。周は東西に分かれて争い、東の平王が打ち勝った。ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。
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