2018/03/23

『古事記傳』18 白檮原の宮の巻【上巻】(1)

口語訳:神倭伊波礼毘古命は、彼の兄五瀬命と二人、高千穗宮で相談して言った。

「どこに住んだら、天下を平らかに治めることができるだろうか。やはりもっと東に住んだ方がいいだろう」

 

そこで日向を出発して、まず筑紫に向かった。豊国の宇佐に到ったとき、宇沙都比古、宇沙都比賣という国人に出会った。彼らは足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って一行をもてなした。そこから筑紫の岡田の宮に移動して、一年滞在した。また移動して、安藝の多祁理(たけり)の宮に遷り、七年暮らした。さらに遷って、吉備の高嶋の宮で八年間暮らした。

 

神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)。名前の意味は、巻十七【九十一葉】で述べた。【書紀に「諱(いみな)は彦火々出見(ひこほほでみ)」とあるのは納得できない書き方である。この天皇を「彦火々出見」と名付けた由縁は、伝十六の四十六葉で言った。しかし、これを「諱」と言うのは、漢籍に「~帝の諱は~」と書いてあるのを模倣したのだが、事実と大きく異なっている。皇国の上代の天皇たちの名は、諱などと言うべきではない。尊貴な人の名を呼ぶことを忌み憚るのは、外国の習慣だ。名はその人を誉め讃える意味のもので、上代には称え名でもよく「名」の字を付けた。大名持といったたぐいである。だから後世、万事漢の風俗を取り入れるようになってからこそ、天皇の名を諱と言うようになったが、上代のはどれも諱とは言えない。

 

仁賢紀に「諱は大脚(おおし)」と書き、註に「他の天皇は諱を言わないのに、この天皇にだけ書いたのは、旧本によっただけのことである」と書いてあるが、この「大脚」を諱としたのも間違いだ。「他の天皇には諱を言わない」と書いてある以上、この天皇の彦火々出見という名も、古い書物には諱とされていなかったのを、撰者がさかしらにそう書いたのが明らかだ。上代に名を忌むということはなかったのだから、「いみな」などという語も古言ではない。「諱」の字の読みとして後に作った語である。またこれを「ただのみな」と読むのも古言ではない。これは称え名や諡(のちのな=おくりな)に対し、ただ普通の呼び名という意味で、後に作った語である。】

 

この天皇は、後の漢風諮号では神武天皇という。すべて天皇の漢風諮号は、弘仁私記によると「師(太安萬侶か)の説で、神武などの諡は淡海御船が勅によって選んだものだという」とあって、実際そうなのだろう。【それは桓武朝のことだとある人が言ったのも、そうだろう。この御船という人は、続日本紀に「天平勝寶三年正月辛亥、無位御船の王に淡海の真人という姓を賜う」とあるのを初めとして、次々に官位を進め、「延暦四年七月庚戌、刑部卿従四位下兼因幡の守、淡海真人御船が卒した。・・・年六十四」とあって、そこに伝記が記されている。参照せよ。この人は廃帝(淳仁天皇)紀に「敏性聡慧で文史に明らかである」と書かれており、光仁紀にも「寶字以降は文人の首になった」とあって、大学頭、文章博士などにも任ぜられている。

 

だから前代の天皇の諮号をこの人に命じて選ばせたのは、いかにももっともなことだ。桓武朝のことだと言う説もそうだろうというのは、続日本紀を見ると持統以降、天皇が崩御した際は和風諮号を奉ったことばかり書かれていて、漢風諮号のことは全く見えない。しかし天平宝字二年八月に、寶字稱徳孝謙皇帝という尊号を奉ったことが出ている。これは、その天皇の御世のことで諡ではないが、漢風の音読による尊号の初めである。その同じ月に、豊櫻彦天皇に勝寶感神聖武皇帝という尊号を奉ったことも出ていて、これこそ漢風諮号の初見だ。しかしこの時にも、歴代の天皇に漢風諮号を贈った様子はない。

 

光仁天皇が崩じ、尊諡を奉って「天宗高紹天皇」と称した。これは漢風諮号のように見えるけれども、そうではなく、まだ古い和風諮号である。文武天皇の「天眞宗~」、桓武天皇の「皇統~」などというのも、わが国の諡ではあるが、どことなく漢風の響きがあるのは、次第に漢国の様式が浸透してきたためだろう。この天宗高紹天皇というのも、漢風諮号は光仁天皇であって、本紀の初めには細字で光仁天皇と註してある。

 

続日本紀では、すべてまず和風諮号を書き、その下に漢風諮号を注してあるので、これもその例に倣ったことは明らかだ。またこの後、仁明天皇まですべて和風諮号があるから、光仁天皇にだけないわけがない。孝謙天皇は出家したので諡を奉らず、上記の宝字二年の尊号を用いるとある。嵯峨天皇の場合は、あったのに伝えられなかったのか、もともとなかったのか物の本には見えない。これらの天皇以外は、仁明まですべて和風諮号がある。

 

その後、桓武天皇の時、淡海御船真人が在世した延暦四年七月までの間に、神武以後仁明天皇までの漢風諮号が選ばれたようである。というのは、延暦十六年に成立した続日本紀に、古代天皇の漢風諮号がしばしば見えるからだ。第一巻に天武天皇、天智天皇などという名がある。しかし、このように漢風諮号で記述した部分を見ると、それはみな撰者の文であり、昔の文を載せたところでは、どれも「~の宮に御宇(あめのしたしろしめす)天皇」、あるいは「~の宮の朝」とだけあって、漢風諮号で書いたところはない。

 

これらの事実で、漢風諮号が選ばれた時期が分かるだろう。ところが甘露寺親長卿の記などに「文武天皇の御世、淡海公藤原不比等に勅して選ばせた」などとあるのは、あまり深くも考えずに書いたのである。たぶん淡海の御船という名はよく知られていないので、何となく淡海公と思い違えたのだ。

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