2018/03/15

イスラエル王国(1)


イスラエル王国(ヘブライ語: מַמְלֶכֶת יִשְׂרָאֵל)は、紀元前11世紀から紀元前8世紀まで、古代イスラエルに存在したユダヤ人の国家。「イスラエル」という国名は、ユダヤ民族の伝説的な始祖ヤコブが神に与えられた名前にちなんでいる。

当初はイスラエル・ユダ連合王国、あるいはヘブライ王国とも呼ばれる統一王国であったが、後にユダ王国 (南王国) が分離したため、分離後の「イスラエル王国」は北イスラエル王国あるいは北王国ともいわれる。イスラエル王国という時、統一王国と分裂後の北王国の両方を指すため注意を要し、区別のために連合王国・北王国と呼び分けることも少なくない。以下、旧約聖書「列王記」に描写されるイスラエル王国の歴史を記述する。

預言者アヒヤは、ソロモン死後の王国の分裂を預言した。後継者争いの中で身の危険を感じてエジプトに逃れていたヤロブアムは、イスラエル王国内の不満分子に担がれる形で、イスラエルへ戻ってきた。

ヤロブアムや各部族の代表たちは、ソロモンの後継者レハブアムに謁見して重税と賦役の軽減を願ったが、にべもなく撥ねつけられた。これに不満を覚え、諸部族がレハブアムに叛旗を翻した。抵抗を受けたレハブアムはエルサレムに逃れ、部族連合に担がれたヤロブアムは、イスラエルの新しい王ヤロブアム1世として、シェケムで王位についた。これが北王国 (イスラエル王国) である。

12部族のうち10部族がヤロブアムを支持し、レハブアムのもとに残ったのはユダ族とベニヤミン族だけであった。レハブアムから南王国 (ユダ王国) が始まる。2つの王国は60年にわたって争い、ヨシャファトがアハブの娘アタリヤと結婚したことで同盟が成立したが、アハブ王家はイエフのクーデターにより断絶し、イエフがイスラエルの王となった。

統一王国の成立
長らく王政をとらなかったイスラエルの最初の王はサウルであった。サウルは12部族の中から選ばれたが、中央集権的というより部族長を中心とする寡頭政治のリーダーであった。

ダビデの時代
サウルが王国建設途上で挫折した後を継いだダビデは、ペリシテ人を撃破するなど軍事遠征を成功させ、近隣王国と友好同盟を結び、イスラエルをその地方の強カな勢力に作り上げた。その結果、ダビデの権力はエジプトや紅海の境界から、ユーフラテスの川岸にまで広がっていった。つまり、北はダマスカスから南はアカバ湾にいたる地域を確保し、エルサレムを王都に定めてイスラエル王国の礎を築いた。

ダビデは、国内でも新しい統治を始めた。イスラエルを構成する12部族を1つの王国に統一し、エルサレムと君主政治を民族の支柱においた。聖書の言い伝えでは、ダビデには多彩な才能が備わっていたようである。彼の詩の才能、音楽の才能などは「ダビデの作」と言われている詩篇の中にうかがうことができる。

また当時の国際情勢としては、前1200年のカタストロフの影響によって、当時の大国であったヒッタイトが滅亡、エジプトおよびアッシリア、バビロニアが揃って衰退期を迎えていた。これらの大国に囲まれる位置にあった歴史的シリア (レヴァント) の地域には、大国の同時衰退によって権力の空白地帯が生じたため、大国の干渉を受けることなく多数のアラム人などの小国が誕生した。イスラエル王国も、そのような状況下で誕生した新興国の一つである。

ソロモンの時代
ソロモンは、父ダビデが築いた国を継承し、その王国をより強大にするためにもっぱら努カした。近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげた。とりわけ、エジプトに対しては終始礼を尽くし属国として振る舞い、ファラオの娘を娶ることで良好な関係を築いた。

ソロモンは外国との交易を広げ、銅の採鉱や金属精錬など大きな事業を進めて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行った。また大規模な土木工事をもって、国内各地の都市も強化している。フェニキアの技術を導入して、エルサレムに壮麗な神殿 (エルサレム神殿) を建立したことでも有名である。これはユダヤ人の民族生活、宗教、生活の中心となった。旧約聖書のなかの『箴言』と『雅歌』は、かつてソロモンの手によるものと考えられていた。しかし、晩年はユダヤ教以外の信仰を容認するようになり、これがユダヤ教徒の厳格派から偶像崇拝と批判されることで、ユダヤ教徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発。国家分裂の原因の一つにまでなっている。

王国の分裂
ソロモンの長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしたが、統一王国という支配体制は一般民衆の不満から綻ぶことになった。人々はソロモンの野心的な事業のため、重税と賦役を担わされていた。またソロモンが自分の出身部族を優待したことも他の部族を慣概させ、君主政治と部族分離主義者との対立が次第に大きくなった。

紀元前922年ごろのソロモンの死後、部族間の統制を失った統一イスラエル王国は、北王国として知られるイスラエル王国と南王国として知られるユダ王国に分裂した。

イスラエルが分裂した原因は、人々の間での富の偏在を避けることが出来なかったこと、国庫財政の悪化から租税強化や大規模土木工事によって生じる強制労働の重圧を敷いたこと、さらに大規模土木工事等によって生じる利権からの政治腐敗などがあげられる。いわば王国に内在していた矛盾が、ソロモンの死とともに一気に噴出して、南北の2国に分裂することになったのである。

分裂後
統一イスラエル王国の最大版図は、地中海沿岸のフェニキア人都市国家群を除けば34000平方kmほどで、うち24000平方kmほどがイスラエルの10部族に引き継がれた。最初の首都はシケムであったが、後にティルツァを経てサマリアに落ち着いた。サマリアは、北王国がアッシリアの軍靴に踏み潰されるまで、首都でありつづけた。

イスラエル王国は、人口の点でも耕地面積においてもユダ王国を凌いで経済的にも優位に立っていたが、多くの部族を抱えたイスラエル王国は、反ユダ王国感情によってまとまっているにすぎず、極めて不安定でクーデターが頻発し、度々王朝が交代した。また、分裂直後から、アッシリアの猛威に晒され続けた。ヤロブアム2世時代に最も繁栄したが、その後は凋落した。預言者アモスはモラルの低下を鋭く弾劾したが、凋落に歯止めがかかることは無かった。

滅亡
末期には王が相次いで家臣に殺害され、殺害した家臣が王位に就くという下克上的な政情不安が相次ぎ、アッシリアの侵攻は激しさを増していく。サマリアは、アッシリア王シャルマネセル5世の包囲に耐えていたが、シャルマネセル5世の死後王位に就いたサルゴン2世の猛攻によって紀元前722年に陥落し、19代の王の下に253年に渡って存続した北王国は終焉を迎えた。10支族の民のうち指導者層は連れ去られ、あるいは中東全域に離散した。歴史の中に消えた彼らは、イスラエルの失われた10支族とも呼ばれるが、10支族の全員が連れ去られたわけではなかった。

北王国滅亡後、アッシリアの植民政策により、サマリア地方に多くの非ユダヤ人が植民した。サマリアには10支族の民のうち虜囚にされなかった人々が多く残っていたが、彼らは指導者層の喪失やサマリアに来た異民族との通婚によって、10支族としてのアイデンティティを喪失した。サマリアは正統派のユダヤ人から、異民族との混血の地として軽侮されることになる。
※出典 Wikipedia

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