2018/03/06

日本人の死生観を探究するための三つの扉(古神道12)


出典 http://www.nippon.com/ja/in-depth/a02903/

神話と歴史に見られる日本独自の連続性
最後の第三の扉が、神話と歴史についての日本人の独自の考え方である。知られているように、古代のギリシャ人やローマ人の間では、神話と歴史は別次元の話だった。つまり、ギリシャ・ローマ神話の出来事と、ヘロドトスやツキジデスが書いた歴史の記述の間に、辻褄の合う連続性を見いだすことはできないと考えられていた。それは西洋の神話学や歴史学では、当たり前のことだった。

ところが、古代日本の神話世界と歴史記述の間の関係は、それとは違っていた。
なぜなら神々の誕生と人間世界の成り立ちが、ほとんど同一次元のリズムの中で捉えられていたからだ。だから国の成り立ちに関しても、その始原の歴史観が西欧の場合と大きく異なっていたのである。記紀神話を読めばわかるが、そこに登場する世界では、二種類の神々が区別されていた。いつまでも生き続ける神々と、死んで陵(みささぎ)に葬られる神々である。永遠の神々と無常の神々と言ってもいい。前者を代表するのが高天原で活動する天つ神で、後者に属するのが天孫降臨以降の国つ神たちである。

天つ神たちは、一時的に身を隠すことはあっても死ぬことはない。ところが地上に降り立った国つ神の子孫は、みんな死んで墓に埋葬されている。そして、この死んで陵に葬られる国つ神たちの系譜の中からあの神武天皇が誕生し、以後歴代の天皇の時代が始まる。生と死を繰り返す神々の運命が、そのまま生と死を繰り返す人間の運命へと引き継がれていったと言っていい。神話の記述が、そのまま途絶えることなく、人間の歴史へと連続しているのだ。

このことを背景にして、2013年秋に行われた伊勢神宮の「式年遷宮」を考えると、その根本の構造が見えてくるだろう。20年ごとに神を祀る殿舎を建て替える儀式であるが、そのとき神は旧正殿から新正殿へと移動する。その神の移動が真に意味するところは何かといえば、古い神が死んで新しい神が誕生するということをおいて他にはないだろう、と私は考えている。神の死と再生の儀式ということだ。神もまた人と同じように死ぬ、という観念が成立していたからこそ、神話から歴史へと連続する独自の世界観や死生観、そして人間観が生み出されることに繋がったのである。そしてまた、神の死の無常性が人間における生と死の無常性と深い連関を持つに至ったのだ。

肉体性に満ちた西欧の多神教、肉体性が希薄な「八百万」の神々
ところで、今述べたような日本の神話に登場する神々の世界は、多神教といわれてきた。ともかくそこには「八百万」の神々が現れるのであるから、多神教には違いない。しかしよく観察すると、この「八百万」教はギリシャ・ローマ神話にみられる多神教とは、どこか違っている。インドのヒンズー教やチャイナの道教に登場する、多神教世界とも異なっている。

一体どこが違っているのか。
多少の例外を切り捨てていえば、この「八百万」教の神々は他の多神教の神々と比べて、個性とか肉体性が希薄である点で際立っている。いってみれば、目に見えない多神教なのである。先にも触れたが、元々日本列島の神々は山野河海のような自然の奥深く鎮まっていると考えられてきたのである。それに対して、ギリシャ・ローマ神話に登場する老人神ゼウス、青年神アポロン、少年神キューピッドは、個性や肉体性に満ちていることがわかるだろう。ヒンズー教の主神であるビシュヌやシバもそうである。これらの神々はいずれも肉体的個性を持ち、目に見える神々の世界を構成しているといっていいだろう。

多神教こそデモクラシーに最も近い宗教
もう一つ、日本の多神教にみられる特質について触れておこう。キリスト教やイスラム教のような一神教では、ただ一つの神々を超越神とか絶対神と呼んできた。人間界から超越した存在とみなしたのである。地上的なものとは隔絶した価値を持つとされてきた。このような一神教は、私の常識的な感覚では、政治の領域における専制支配や君主制と対応するように映る。なぜなら、超越神が全宇宙を支配しているように、この地上世界をいわば人民の頭越しに超越的に支配しようというのが専制支配であり、君主制であるからである。

要するに、一神教というのは宗教の世界における独裁体制であるといえないこともない。ところが不思議なことに、われわれにも親しいデモクラシーという近代の政治体制が、その一神教的な土壌から産み落とされたのである。英国の民主的な議会政治もフランス革命の急進的な民主主義も、みんなこのような一神教的な風土の申し子であった。

しかし、よくよく考えてみれば政治上のデモクラシーに最も近いはずの宗教システムは、むしろ多神教ではないだろうか。多元的な価値と多様な神々の存在を認める多神教こそ、民主主義的な政治体制に最もふさわしい宗教の在り方と思うのだが、どうだろう。神が死ぬという観念と、相対的で多元的な価値観に基づく政治の在り方というのは、これまで述べてきたようなこの世界の移ろいやすい無常性という一点において結びついているのである。

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