○ついでに言うと、いにしえの御世については、普通たとえば「近江の大津の宮に御宇す天皇(天智天皇のこと)」、「飛鳥浄御原朝(天武天皇のこと)」などと書いたのを、後世の人は後の漢風諮号ばかり知って、真の本名を知りもせず、古い書物に書かれた名を見ても、どの天皇のことか分からない。ひどいのは、漢風諮号をその天皇の本名と思い込み、上代の事実を疑いさえする。古代を尊ぶ人は、よく心得るべきだ。
○またついでに言うが、古文に「~宮御宇天皇の御世」というのを、後世の俗文でどれも「~天皇の御宇」と書くのは間違いだ。「御宇」は「天下を所知看(しろしめ)す」ということで「御宇の時」、「御宇の御世」となら言えるが、単に御宇と言ったのでは、その御時ということにはならない。】
○「與2其伊呂兄五瀬命1(そのいろせイツセのミコトと)」。伊呂兄(いろせ)については伝九【二十六葉】にあり、五瀬命の名の意味は伝十七【九十葉】に書いた。
○ここの注に「上伊呂」とある「上」の字は衍字だろう。他にこうした例がない。
○この時の状況を考えると、五瀬命は葺不合命の第一子であり、父の死後は、この人が天津日嗣を受け継いだはずだ。【書紀には、この兄弟の生まれた順序に五つの異伝があるが、どの伝えでも五瀬命が長子である。】
だからおそらく伊波禮毘古命も稲氷命や御毛沼命とともに、弟として五瀬命に仕えていたのだろう。しかし五瀬命は東征途上で命を落とし、業績を完成させられなかったので、そのことは確かな伝えにはないが、ここで特にこの一柱の名を挙げていることでも、本来は君主だったことが明らかだ。【もしこのとき、すでに伊波禮毘古命が天津日嗣の御子として、兄弟と相談したのだったら、稲氷命や御毛沼命も兄だから、ここにその名も挙げるべきだが、五瀬命だけを挙げている理由を考えよ。】
とすると、ここを当時のありのままに書くと、「五瀬命はその弟若御毛沼命と云々」とあるはずだが、若御毛沼命が【伊波禮毘古命のことだ。】
大業を成し遂げ、ついに天下を治める人となったので、その御世の初めを書くにも、この人を第一に挙げ、五瀬命を従のように書いたのだ。【このところは、書紀では初めから伊波禮毘古命が主とされ、「その兄たちと子供たちに言って」と書いてあり、五瀬命を特に取り上げてはいない。この記の趣とは異なる。しかしそれも伊波禮毘古命が天下の主となった後で書いたからそうなっているので、実際の主は五瀬命だっただろう。】
五瀬命が崩じたとき、次は稲氷命が天津日嗣を受け継ぐはずだが、末っ子だった伊波禮毘古命が受け継いだのはなぜかと言うと、一般に上代には、幾人かの御子の中で、特に日嗣の御子と決まっているのが、必ずしも一柱ではなかった。日代の宮(景行天皇)の段にその証拠がある。【このことは、そこで詳しく言う。】
とすると、この兄弟四人のうちで、五瀬命と伊波禮毘古命の二人が何かの理由で日嗣の御子と決まっていたのだろう。【あるいは、稲氷命が海に入ったことや御毛沼命が常世の国に行ってしまったことが、すでに古事記上巻の終わりに書いてある。その時はまだ日向の宮におり、東征の際にはもうこの二人はいなかったため、自然に伊波禮毘古命が継いだとも考えられ、ここで五瀬命だけが挙げられているのも、他の二人はもうその時にはいなかったからだとも言えるが、その二人が海に入り、常世の国に行ったのが、日向に住んでいた頃のこととすると、その理由がない。書紀にあるように、東征の時、紀伊の国の海でのことだというのは明らかである。この記はその時も場所も言わない伝えによるので、上巻の末に二人の名が出たついでに書いてあるが、実は東征にも同行していたのだ。またあるいは、この記と書紀の五つの所伝のうち四つは、みな伊波禮毘古命を末子としてあるが、一つの伝えには第二子と書いてある。それなら、五瀬命が死ぬと伊波禮毘古命が受け継ぐ道理であり、その第二子とするのが正しい伝えかとも思ったが、この記と食い違うので、それは採用できない。たぶん本来は五瀬命と伊波禮毘古命がいずれも日嗣ぎに決まっていて、父の死後は五瀬命が君主であったのを、五瀬命も死んでしまったので、伊波禮毘古命が継いだのだろう。】
そのため、稲氷命は伊波禮毘古命を救うため、海に入ったのだろう。【このことは既に上巻、伝十七の九十三葉で述べた。参照せよ。】
そうでないなら、海に入った理由が分からない。<訳者註:稲氷命と御毛沼命も東征途上で死んだのだが、宣長は「海に入った」とか「常世の国に行った」ということを、死んだとは解していない>
○高千穂宮。この宮のことは伝十七【八十二葉】で述べたとおり、大隅国のことと思われる。【日向国の宮崎だという説は、古い書物の記述に合わない。日向国南方村というところに、神武天皇の社というのがあり、そこを皇居跡だと伝えるそうだが、信じられない。書紀などに日向の高千穂の峯といい、この記でも「日向を発って」とあるので、今の日向と考えるのは、まだ考えが足りない。上代には大隅、薩摩を含めた広い地域を日向と言ったことは、既に述べた。三代実録に「日向國高智保神」というのがある。和名抄には同国臼杵郡に智保郷が載っている。これらも高千穂山に関係した名ではあるだろうが、高千穂の宮はやはり大隅国にあることは疑いない。】
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