出典 http://www.geocities.jp/timeway/index.html
殷を滅ぼした王朝が周です。周は現在の西安辺りにあった邑です。元々は殷に服属していたのでしょう。これが段々力をつけてきて周辺の邑を支配下におくようになって、殷の統率から離れる。最後は殷を中心にする邑連合と、周を中心とする連合が決戦をして周が勝利した。これが、前1027年のことです。この時の周の王様が武王という。殷の王様が酒池肉林の紂王でした。周のあった場所は、当時のチャイナ文明の辺境です。周を建てた部族は、西方の異民族系統だった可能性が強い。そもそも漢民族と呼ばれるようになるチャイナ文明を作った民族というのは、こんなふうにどんどん周辺の民族がチャイナ文明化して形作られた。周をつくった人々は辺境の蛮族に近いから、戦争も強かったんでしょう。
周が都を置いたのが鎬京(こうけい)。今の西安あたり。周の支配制度が「封建制」です。周王は、有力氏族の首長に邑を与える。まだまだ未開の土地はたくさんありますから新たな邑を建設させて、そこの統治をまかせる。こういう新しい邑が周の支配下の土地にたくさん建設されるわけです。従来の邑の中には殷と近い関係にあったものもたくさんあるでしょうから、こんなふうに周王は配下の邑をつくることで、全土に睨みを利かすことができたのです。周王から邑の支配を任された者を諸侯といいます。
諸侯は、周王に対しては軍役と貢納の義務を負いますが、それ以外は自分の領地をどう支配してもかまいません。諸侯は自分の邑の周辺に、配下の有力者を配置します。彼らも小さな邑を支配する。彼らのことを、卿・大夫・士(けい・たいふ・し)という。要するにピラミッド型に上から、周王、諸侯、卿・大夫・士とあって、それぞれのランクに合わせて邑を支配している。これが周の封建制です。士以上が貴族身分、支配者階級と考えたらよい。
この周の封建制は日本や西欧の封建制とは違う、と教科書には書いてあるね。何が違うか、まだ西欧の封建制を勉強していないから教科書の書き方は非常に不親切だけど、簡単にいうとこういうこと。日本の中世でも同じですが、領主は領土を与えてくれた君主に恩義を感じて忠誠を誓う、というのが封建制。領地を与えるから私はおまえの主人、逆らったらいかんよ、という契約関係です。領地と忠誠を交換しているわけです。周の封建制を支えているのは、そういう契約関係ではない。何かというと、血縁関係です。これを宗族という。共通の祖先から枝わかれしたと信じている集団です。同じ宗族なんだから協力しなくてはいけないというルールを作って、それによってピラミッドの統制を保ちます。
宗族の規範のことを宗法といいます。宗法では、周の王様は御本家なの。諸侯は分家。卿・大夫・士はさらに分家。分家は本家に逆らっていけない。なぜかというと本家だけが、祖先の霊を祭ることができるからです。分家の者が祖先神を祭っても良いけど、本家がお祭りすることで御先祖様は一番喜ぶわけですよ。だから、その御本家の周の王様に逆らうわけにはいかないのです。これが宗法。この秩序で、周王は諸侯を統率した。だから、まだまだ宗教的ですね。祖先神のたたりは恐ろしいからね。周は殷を滅ぼした時に、その王家の者を殺さないんですよ。なぜかというと、殺してしまうと、殷王家の祖先神を祭る者がいなくなるでしょ。そうしたら殷の祖先神が災いをなすかもしれない。それは恐ろしいので、王家の者は生かしておく。そういう時代です。
周の東遷
周の時代は、大きく二つに分かれる。前半を西周(前1027~前771)、後半が東周(前770~前256)です。前半の都が鎬京でした。後半の都を洛邑(らくゆう)という。都が東に移ったので東周というわけです。
都が移ったのに関して面白いエピソードがあるので紹介しておきましょう。幽王と褒姒の物語です。都が移った時の王が幽王です。褒姒はその妃なんですが、絶世の美人。幽王はぞっこんなんですが、褒姒妃には一つだけ変わったところがあったんです。なにかというと、彼女は生まれてから一度も笑ったことがない。いつも澄ましている。これだけの美人なんだから笑顔はどれだけ素晴らしいだろうと幽王は思った。そこで、道化師を呼んだり色んななことをするんですが、何をしても褒姒は笑わない。こうなってくると、幽王はなにが何でも笑顔が見たい。願望がどんどん煮詰まってくるわけだ。
そんなある時、西方から異民族が鎬京を襲撃に来ました。こういう時は、鎬京から狼煙をあげて東方の諸邑の諸侯に救援を求めることになっている。幽王は狼煙をあげた。それを見た諸侯たちは、一大事と手勢を率いて全土から鎬京の町目指して駆けつけてきます。ところが鎬京の城外に集結してみると、異民族の襲撃は誤報だったことが分かる。息せき切って駆けつけてきた諸侯の軍隊は、拍子抜けしてガックリするんです。それを城壁の上から褒姒は見ていた。大の男たちが、ガックリする様子が面白かったんでしょう。ニッと笑ったんだ。それを幽王は横から見た。その笑い顔をみて、ゾクゾクッと興奮してしまった。やっぱり素晴らしく美しかったんですね。もう一度見たい、と幽王は思った。どうすれば彼女が笑うかも分かった。
非常事態にしかあげるべきでない救援要請の狼煙を幽王はあげてしまうんだね。幽王狼煙あげる、諸侯駆けつける、敵いない、ガックリ、褒姒・ニッ、幽王ゾクゾクッ、またのろしあげる、諸侯駆けつける、敵いない、ガックリ、褒姒・ニッ、幽王ゾクゾクッ。このパターンが何回も続くうちに諸侯も分かってくる。王は妃の笑いを見たいために、我々をだしに使っている。もう狼煙があがっても行かないぞ、となる。狼少年の話と同じだ。やがて、本当に異民族が鎬京に攻め込んできます。幽王は必死に狼煙をあげるけれど、諸侯は誰一人として救援に来なかった。そのまま鎬京は陥落し、周は都を東の洛邑に移した、というわけです。
この話は物語ですが、幾分かの真実も含まれているんでしょう。ひとつは、周が西方辺境の異民族統治に失敗して、混乱の中で都を放棄せざるを得なかったこと。もうひとつは、宗族として本家である周王を盛りたて助けなければならない諸侯が、それを行わないようになっていた。宗族、宗法の絆がゆるみ始めていること。都が移って以後は、東周の王は名目だけの存在となります。諸侯を統制するだけの力も権威も無くなってしまった。諸侯の自立化が始まるのです。
この東周の時代が、さらに前後半に分けられます。前半を春秋時代(前770~前403)、後半を戦国時代(前403~前221)という。春秋時代は周王の力が衰えたけれども、諸侯たちの意識として王様を盛りたてなければいけないという意識が、まだそれなりにあった時代。宗法が人々の意識をそれなりにしばっていた時代です。そういう古い意識をかなぐり捨てたのが戦国時代です。
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