2018/03/30

カルタゴ(2)


カルタゴ(ラテン語: Carthāgō または Karthāgō カルターゴー、アラビア語: قرطاج Qarāj、英語: Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖である、チュニス湖東岸にあった古代都市国家。地中海貿易で栄え、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市として首都圏の一部を成す。

カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart Hadasht=「新しい町」)に由来するとされる。

地理
カルタゴが建設された地形は水深が浅く、錨を下ろしやすい入江があり、突き出した岬がある。これはフェニキアが港の建設をする条件に沿っている。カルタゴは地中海の東西のほぼ中央にあり、前8世紀頃にはイベリア半島のガデスから、フェニキア本土のテュロス等へと貴金属を運ぶ航路の中間にあった。この位置が、カルタゴが繁栄する一因となった。

フェニキア人の地中海の航路は反時計回りであり、イベリア半島から東へ向かう船は北アフリカの海岸沿いに進み、テュロスなどフェニキア本土から西に向かう船はキプロス、ギリシア、シチリア、イビサなどの島々を経由した。

カルタゴ建国伝説
カルタゴの建国に関して確実なのは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したこと、ティルスと同じメルカルト(Melqart)が町の守護神であったことなどである。カルタゴは、同じフェニキア系都市で先に入植されたウティカやガデスの寄港地として開かれたと考えられている。なお、カルタゴ遺跡からの出土品では、紀元前8世紀後半のものが最も古い。

テュロスの女王ディードーが、兄ピュグマリオーン(Pygmalion of Tyre)から逃れてカルタゴを建設したとされる。ディードーは主神メルカルトの神官の妻だったが、ピュグマリーオンがディードーの夫を殺害したためにテュロスを去った。ローマの歴史家グナエウス・ポンペイウス・トログスの『ピリッポス史』によれば、岬に上陸したディードーは、1頭の牛の皮で覆うだけの土地を求めた。岬の住人が承知をすると、細く切った皮で紐を作って土地を囲い、丘全体を手に入れる。この丘はギリシア語で「」を意味するビュルサと呼ばれるようになった。ビュルサには近隣の人々が集まるようになり、同じくフェニキア系の都市であるウティカから使者が訪れ、都市の建設が始まる。皮で囲まれた土地については、地代としてアフリカ人へ貢租を支払うことになり、前5世紀まで支払いが続いたとされる。古代ローマの詩人ウェルギリウスは、上記とは異なるディードーの伝説を『アエネイス』で書いている。

ポンペイウス・トログスによるディードーの伝説に従えば、カルタゴはテュロスによる正規の植民都市ではなく、亡命者の土地にあたる。また、神官の妻だったディードーは、宗教的にはピュグマリーオンよりも正統に属しており、メルカルト信仰の中心がテュロスからカルタゴへ移ったことも意味する。ビュルサの丘は、現在のサン・ルイの丘にあたる。古代ギリシアやローマの歴史家らの史料ではトロイ戦争(紀元前12世紀頃)前、紀元前820年頃や紀元前814年頃にそれぞれ建国されたという記述があるが、いずれも裏付はない。ちなみにチュニジア政府は1987年に「カルタゴ建国2800年祭」を行っており、「紀元前814」が一般的にカルタゴ建国年と見なされている。

カルタゴ創成期
地中海に面するカルタゴの初期は、農耕を営む者と海で働く者との長い闘争の歴史であった。都市は、主に交易で成り立っていたため、海運の有力者たちが統治権を握っていた。紀元前6世紀の間、カルタゴは西地中海の覇者となりつつあった。

商人や探検家たちは広大な通商路を開拓し、そこを通って富や人が行き来した。紀元前5世紀前半、海洋探検家の航海者ハンノは4回に渡る遠征を行い、「ヘラクレスの柱」と呼ばれたジブラルタル海峡を越えて、北アフリカ沿岸のシエラレオネにまで辿りついたと推測されている。第1回の航海は3万人で出航し、6つの植民都市を建設した「ハンノの航海」として知られている。その後、カルタゴはマルカスという指導者のもと、アフリカ内陸と沿岸一帯に領土を拡大した。

紀元前5世紀初頭より、カルタゴはこの地域の商業の中心地となり、それはローマによる征服まで続いた。カルタゴは、フェニキア人の古代都市や古代リビュアの諸部族を征服し、現在のモロッコからエジプト国境に至る北アフリカ沿岸を支配下におさめた。地中海においては、サルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島を支配。イベリア半島に植民都市を建設した。
※出典Wikipedia

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