口語訳:この天皇の御世に、疫病が大流行し、人々が次々に死んで、ほとんど死に絶えそうなほどであった。天皇はひどく心を痛めて、神の床に寝ていた夜、大物主大神が夢に現れ、
「これは私の心が為したわざだ。もし意富多多泥古に私を祭らせたら、神の気は起こらず、国は平和になるだろう」
と言った。
そこで駅馬を四方に飛ばして、意富多多泥古という人物を求めさせたところ、河内の美努村というところで、その人を見出したので、朝廷に連れてこさせた。天皇は「お前は誰の子か」と訊ねた。すると「私は大物主大神が陶津耳命の娘、活玉依毘賣を妻として生んだ子、櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、それが私、意富多多泥古です」
と答えた。
天皇はこれを聞いてたいへん喜び、
「これで国は平和になり、人々は富み栄えるだろう」
と言った。
すぐに意富多多泥古命を神主として、御諸山で意富美和の大神の前を拝祭させた。また伊迦賀色許男命に命じて天之八十毘羅訶を作らせ、天神地祇の社を定めて奉らせた。また宇陀墨坂の神に赤色の楯矛を奉り、大坂の神に黒色の楯矛を奉って祭らせた。さらに坂の御尾の神、河の瀬の神に至るまで、すべての神に漏れなく幣帛を奉った。これによって疫病は静まり、国は平安になった。
○人民は「おおみたから」と読む。
書紀では「民」、「人民」、「萬民」、「兆民」、「黎民」、「民庶」、「衆庶」、「黎庶」、「億兆」、「人物」、「人夫」、「庶人」、「居人」、「戸口」、「百姓」、「元々蒼生」、「業々黔首」など、みなそう読んでいる。【ただし「み」はみな「む」と読んでいる。それはやや後の音便である。古言は正しく「み」と読むべきだ。】
大御宝ということである。「王民」、「公民」、「良人」などもそう読むべきだ。これらは賎民に対して言う言葉である。すると「おおみたから」とは、もとは良人に限る言葉であって、奴婢には適用されなかったのか、それとももともと良賎を選ばず言った言葉か。その違いは定かでないが、それはどうあれ、普通は単に諸々の民という意味で用い、ここもそうである。【古い書物の趣を考えると、確かに奴婢に対して良人を公民と言っているような箇所も、「おおみたから」と読む他はないので、「おおみたから」とは、元は良人に限っていった名のように思われる。しかしまた、良賎の区別に関わりなく、単に広く民を言う場合にも、「天下の公民」と言った例が多い。これは賎に対して良を言う「おおみたから」を、いつも公民と書き慣れて、その字を借りて、良賎に関わらないところでも、通わせて使ったのだろう。なお公民のことは、玉垣の宮の段、伝廿四の六十葉で言う。】
江家次第の非常赦に、検非違使の佐の言う言葉に「依2其事1殊以免給、各罷=還2本貫1、重犯不2奉仕1、爲2公御財1、御調物備進禮(そのことによりてことにもってゆるしたまう、おのおのモトツサトにまかりかえり、かさねてオカシまつらず、オオミタカラとなりて、ミツギモノそなえたてまつれ)<現代語訳:そのこと(特赦となった事情:新天皇の即位など)によって、特別にお許しがあった。各々、もといた里に帰り、再び罪を犯さず、公民となって税を納めよ>」とある。
ここには「おおみたから」という言葉が正しく見えている。【「公」という字は、普通「公民」と書き習わしている「公」の字を取っただけである。これを「おおやけ」と読んではならない。ここの「人民」を、師は「あおひとくさ」と読んだ。ここはそう読んでも良い。しかし記中に「人民」とあるところで、そう読んでは良くないところもあり、やはり「おおみたから」と読むのがどこであっても良い読み方だ。】<訳者註:賎民(被差別民)には一般的に納税の義務がなかった>
○安平は「たいらぎなん」と読む。書紀の天武の巻でもそう読んでいる。明の宮の段の終わりに、「その身は元のように安平(たいらぎ)」。書紀にいわく、「五年・・・、【その文は上に引いた。】六年、百姓は流離し、謀反する者も現れた。天皇の徳を以ては治めがたかった。そこで非常に畏まって、神祇に謝罪し祈りを捧げた。これ以前、天照大神と倭大國魂の二柱の神を天皇の大殿の内に並べて祭っていたが、その神威を畏れて、共に住むことが不安になった。
そこで天照大神を豊鍬入姫命に託して倭の笠縫の邑に祭り、そこに神籬を立てた。また倭大國魂の神を淳名城入姫命に託して祭った。ところが淳名城入姫命は、髪が抜け落ち痩せ衰えて、祭り続けることができなかった」【天照大御神の御霊の鏡は、「同床共殿に齋鏡(いわいかがみ)として祀れ」と言って賜ったものだから、永久に天皇と同じ御殿で齋(いつき)祭るものなのに、なぜこのように他の場所に遷したのかというと、五年の疫病、六年の百姓流離などで、ひどく神の御心を畏れ危ぶみ、この二柱の神の祟りかも知れないと考え、共に住むのを不安に思ったからである。というのは、いつも同じ殿中にいたら、自然に慣れて、つい軽々しく扱ったり、その気がなくとも、不浄のこともないではなかっただろう。おのずから敬いの礼を怠ってしまう可能性もあることを畏れたのだ。
といっても、まだ大倭国内で祭っていたのだが、垂仁天皇の御世になると、さらに鎮座の地を求めて、ここかしことさまよい歩いたのはなぜかというと、その巻に「・・・その後神の教えのままに、伊勢国渡遇宮(わたらいのみや)に遷った」とあるのを見ると、初め「嚴橿之本(いつかしがもと)」にいたときにでも、「他のところに遷せ」という神の教えがあったのだろう。神代に同床共殿の勅命はあったけれども、この代に至って、ついに天皇の大殿を離れ、永く伊勢国に鎮まった深い契りは、初めからあったことだろう。それは幽(かく)れていて、どうにも普通の人には測り知れないものだ。
ところでここでは倭大國魂の神を祭った地も書くべきなのに、ただ「祭った」とのみ書いて、その地を書いてないのは、脱けたのである。】「七年春二月、天皇は神浅茅原に行き、八十万の神を集えて、卜い訊ねた。このとき神が倭迹迹日百襲姫命に憑いて
『天皇よ、国が治まらないからといって、何を憂えることがあるのか。私を敬い祭れば、国は必ず平安になるだろうに』
と告げた。
天皇が
『そうおっしゃるあなたはどの神ですか』
と訊ねると
『私は倭の国内にいる神、名は大物主神という』
と答えた。
そこで神の言葉に従って祭ったが、効果はなかった。天皇は沐浴斎戒して、殿内を清め
『私の神の祭りは、まだ足りないのでしょうか。どうして受けてくださらないのですか。どうか夢に現れて、お教えください』
と祈った。
その夜の夢に貴い人が現れて殿戸に向かい立ち、自分は大物主神だと名乗り
『天皇よ、憂えるな。国が治まらないのは私の意志だ。もし我が子、大田田根子に私を祭らせたなら、国は平らかになるだろう。そのうえ、外国の人々も自ら帰順してくるだろう』
と言った。
秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神浅茅原目妙姫命、穂積臣の遠祖、大水口宿禰、伊勢麻績君の三人が、同じ夢を見たので言上して
『昨夜の夢に一人の貴人が現れ、大田田根子を大物主神を祭る神主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大國魂の神を祭る神主とせよ。天下は必ず平らかになるだろう、と告げました』
と言った」【「八十万神を集えて」とは、その御霊を請い寄せたのである。神代巻でその現身を集えたのとは異なる。】
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