○意富多多泥古(おおたたねこ)。【この名は、「おお・たた・ねこ」と読む。「おおた・たねこ」と読むのは良くない。】旧事紀に「大直禰古(おおただねこ)」とも書いてある。「多々」は地名だろう。延喜式神名帳に「摂津国河邊郡、多太(ただ)神社」がある。この社は多田荘の内【平野村】にある。【この多田という地は、中昔以来世人のよく知るところだ。】ここだろうか。大和国葛上郡にも多太神社がある。「泥古」は尊称で、難波根子、山背根子などの類だ。三代実録【巻四、六】には「大三輪の大田田根子命」とある。
○上記の大物主大神から意富多々泥古命までの系譜を言った言い方は、【普通はアの子イ、イの子ウ、ウの子エと言うのを、ここでは「アの子、イの子、ウの子エ」と言っている。】書紀の神代巻で「磐裂・根裂の神の子、磐筒男・磐筒女の生んだ子、經津主神」というのに似ている。新撰姓氏録にも【眞野臣のところ】「大口納命の子、難波宿禰の子、大矢田宿禰云々」とあるのと同じだ。古文の言い回しと思われる。
ところで、ここに言った通りなら、意富多々泥古命は大物主神の四世の孫なのに、新撰姓氏録に「五世の孫」とあるのは、伝えが異なるのか。それとも大物主神から数えて言ったのか。いにしえには「何世」という時に、始祖から数えた例もある。そのことは下巻玉穂の宮(継体天皇)の段で言う。この世継ぎのことは、書紀に「天皇は神浅茅原に出て来て、王や卿たちと八十諸部を集合させた。そして大田田根子に『お前は誰の子か』と尋ねた。『父は大物主大神、母は活玉依媛、陶津耳の娘です』と答えた。【または奇日方天日方武茅淳祇(くしひがたあまつひがたたけちぬつみ)の娘だとも言う。】
天皇は『朕當2榮樂1(私はこれで栄えるだろう)』と言った」とある。【「朕當榮樂」とあるところは、言葉が足りない感じである。】また新撰姓氏録や旧事紀に紛らわしい記事がある。【書紀で大田田根子を大物主神の直接の子とし、活玉依媛を母としたのは、上代には子孫に至るまで広く「子」と言ったから、紛れて伝わったのだろう。しかし「また奇日方天日方武茅淳祇の娘ともいう」の部分は、別に一つの伝えを挙げたのだから、細字になっているのが当然なのに、今の本では続けて大書されているのはなぜか。大書では、大田田根子が言った言葉になる。自分の母のことを言うのに、異説があるはずはない。これは活玉依媛の父についての異伝だから、一人の名なのに、二つに分けて、「奇日方天日方」を活玉依媛のまたの名と解するのも誤りである。奇日方天日方はこの記の櫛御方命に当たるように思われるのを、活玉依媛の父とするのは、これも紛れたのである。だからこれは武茅淳祇とは別人なのを混同して一人の名前としたのだ。武茅淳祇は陶津耳に相当する。
次に新撰姓氏録の大神(おおみわ)朝臣のところに書かれている説は、白檮原の朝の大后、伊須氣余理比賣命の父母と紛れたもので、間違いである。その文は後に出る神君(みわのきみ)のところで引く。次に旧事紀は、総体に信用できない書物であるが、四の巻の大神朝臣の系譜を記した段で、この意富多々泥古の祖先を書いたのは、拠り所があるように見える。ただ中に自分勝手な思いつきを加えたところもあるようだ。
たとえば
「事代主神は八尋の鰐になって三嶋の溝杭の娘、活玉依姫に通い、一男一女を生んだ。天日方奇日方命と、妹姫蹈鞴五十鈴姫命である」
と言ったのは、白檮原の朝の大后の父母と、この大神朝臣の祖を取り違え、最後には三嶋溝杭の娘を活玉依姫とし、天日方奇日方命と五十鈴姫命を同母の兄妹としている。みな誤りである。これは書紀の神代巻で
「大三輪の神、この神の子は、甘茂(かも)君ら、大三輪君ら、また姫蹈鞴五十鈴媛命である」とあるのを読み誤ったことから出たのだ。「この神の子」というのは子孫のことである。「甘茂君、大三輪君」というのがいずれも姓であることで分かるだろう。三嶋の溝杭の娘を妻としたのも、陶津耳の娘、活玉依媛を妻としたのも、ともに大物主神ではあるが、事は二つで別なのを、話が似ているので、新撰姓氏録では混同して伝えている。
書紀では、五十鈴媛姫の父を大物主神とするのと、事代主神とするのと二つの説があるが、甘茂君、大三輪君は大物主神の子孫でこそあれ、事代主神の子孫という伝えは、古い書物に見えたことがない。ところが、そうした混同の結果、旧事紀ではこれも混同して書いている。旧事紀にはこういう人を惑わす記事が多い。よく考えなければ誤る。以前、上巻の伝七で、胸形君について、胸形大神を胸形君が以拝(もちいつ)くのは、事代主神の由縁であると言ったのは、よく考えると良くなかった。それも大物主神の所縁であろう。
ところで旧事紀では、上記の次に
「三世の孫天日方奇日方命、またの名、阿田都久志尼(あたつくしね)命は、日向賀牟度美良(ひむかのかむどみらひめ)姫を娶って一男一女を生んだ。健飯勝(たけいいかつ)命と、妹淳名底姫(ぬなそこひめ)命である」
とある。
三世の孫とは、この系譜を素戔嗚命から数えて書いているからだ。しかし櫛日方命は、この記でも新撰姓氏録でも大物主神の子であるのを、事代主神の子としたのが間違っていることは、上記で弁じた通りである。
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