2017/06/29

『古事記傳』15-1 神代十三之巻【御孫命天降の段】(3)

○伊須受能宮(いすずのみや)。これは伊勢の大神宮である。書紀の神功の巻に「五十鈴」と書かれている。これは地名で、五十鈴川、五十鈴原などもある。名の由来は定かでない。【「倭姫命世記」に「猿田彦の子孫、宇治土公(うじのつちぎみ)の祖、大田命がやって来てここで会った。・・・倭姫命は『いい宮処がありませんか』と訊ねると、『佐古久志呂(さこくしろ)宇遲(うじ)の五十鈴川の川上は、大日本国の中でもすぐれて霊異の地であります。中でも翁(私)が八万歳生きてきて、まだ見たことのなかった不思議なものがあり、日月のように照り輝いています。これはぼんやりしたものでないから、きっとその主が出現されるだろう、その時に献ろうと思って、そのところにお祭りしてあります。』と答えた。姫はすぐにそこへ言って見ると、遙か古代に天照大神が天上で誓(うけ)いして、豊葦原の瑞穂の国のうちでも、伊勢風早の国は、いい宮処だと見定めて、天上から投げ降ろした天の逆太刀(さかたち)・逆鉾(さかほこ)の金の鈴などがあった。姫は心に大変喜んで、天皇に申し上げた。」とあるけれども、疑わしい点があり、全部は信じられない。】

 

天照大御神の御霊の鏡は、ここの詔にあるように、代々の皇孫の命が住む大殿で拝祭してきたのだが、水垣の宮(崇神天皇)の代になって、別の所に遷した。そのことは書紀のその巻【崇神】に「六年・・・これ以前に、天照大神と倭大国魂神の二柱の神を天皇の大殿の内に並べて祭っていた。しかしその神の勢いを畏れ、共に住むことが不安になってきた。そこで天照大神を豊鍬入姫に託して、倭の笠縫の邑に祭った。そこに磯堅城(しき)の神籬(ひもろぎ)を建て、云々」とある。

 

それから伊勢に遷った経緯は、書紀垂仁の巻に、「二十五年三月丁亥朔丙申、天照大神を豊耜入姫から離し、倭姫命に託した。これから倭姫命は、大神の鎮座地を求めて、菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に行った。次に少し戻って、近江の国に入った。東に回って、美濃から伊勢の国に入ったとき、天照大神が姫に告げて、『この神風の伊勢の国は、常世の重浪(しきなみ)が寄せる国、傍国(かたくに)の美しい国だ。私はこの国に住みたい』と行った。そこで大神の言う通り、伊勢国に祠(ほこら)を立てた。そのため五十鈴川の川上に斎宮を建てた。これを磯宮(いそのみや)と言う。これは天照大神が初めて地上に降りられたところである。」

 

【この文は紛らわしいところが多い。よく考えなければ、誤読する。「その祠を伊勢国に立てた。そのため五十鈴川の川上に齋宮を建てた」とあるが、この斎宮がすなわち伊勢の大神宮となった。これを古語拾遺や倭姫命世記などで文を少し変えて、倭姫命の住む宮のように書いているのは、後世の齋王の宮を齋宮というため、混同のである。齋王の宮とは齋王が住む宮であり、ここでいう齋宮は、天照大御神を齋き祭る宮のことであって、名は同じだが意味が違う。この部分には、天照大御神の宮について書いてあるのに、そのことは「伊勢国に祠を立てた」とおおよそのことを言っただけで、齋王の住むところの方を「五十鈴川の川上」と詳しく書くのは変だ。万葉の人麿呂の長歌(199)に、「渡會(わたらい)の齋宮(いつきのみや)」とあるのも、大御神の宮のこととしか考えられない。

 

さらに、倭姫命の居所を「宮」と言いながら、大御神には「祠」などと言うべきでない。とすると、「立」の字は「定」を誤ったものだろう。神の「やしろ」には、皇国では必ず「社」の字を書き、また「宮」と言う。中でもこの大御神などは、「宮」でなければならないのに、「祠」というのは、文字の意味はともかく、単にその宮のことを言ったのではない。その祭るべき所という意味だ。雄略の巻に「稚足姫(わかたらしひめ)の皇女は、伊勢の大神の祠(いわい)に侍った」というのも、拝祭する意味を含んでいるので、この字を書いている。それで「みや」でも「やしろ」でもなく、「いわい」と読んでいる。とするとここも、祠(まつ)るところを伊勢の国と定めて、その結果五十鈴川の川上にその宮を建てたのである。

 

だが次に「それを磯の宮と呼ぶ」とあるのは納得できない。この五十鈴の宮を磯の宮と呼んだことは、他の書には出ていない。思うに、皇太神宮儀式帳などで、五十鈴の宮に鎮座する前、磯の宮に鎮座していたことがあると書いてあり、延喜式神名帳に「度會郡磯神社」、和名抄にも同郡に「伊蘇郷」があり、今も礒村という。この地にしばらく鎮座していたのを磯の宮という。ただしそれは度会郡ではない。多気郡の相可(おうか)郷のあたりだという。いずれにせよ、ここはその「伊蘇」というのと、「いすず」というのと、名が似ているので混同した伝えである。だからここを磯の宮としてはいけない。「五十鈴の宮という」とすべきところだ。

 

次に「天照大神が初めて地上に降りられたところである。」というのは、ますます納得できないが、最近気付いたことがある。というのは、古伝の趣旨に関係なく、単に思いつきで言うことならいろいろあり、それはすべて自分勝手な思い込みだから、取るに足りないのだが、私が気付いたことと言うのは、まず初めに猿田彦神が答えて、「私が先だって天孫の道案内をしよう・・・天神の子は筑紫の日向に行かれることになっている。私は伊勢に行く」と言っている。皇孫が日向に降るのに、その道案内をする神が伊勢に降ることは、深いわけがある。豊受宮儀式帳に、天照坐皇大神は、度會の五十鈴の川上に大宮を建てて仕え奉った。

 

ところが大長谷天皇(雄略)の夢に天照大神が現れて「私は高天の原にいて、地上の様子を見て良い地を求め、ここに鎮座することにした」とある。だから、この御霊の鏡をここに鎮座させることは、天照大御神がずっと以前から考え、決めてあったことなのだ。とすると猿田彦神が、道案内をしながらも、最後にこの伊勢に到ったことも、古語拾遺に「初め天上にいて、幽契(ひそかなとりきめ)を結び、衢の神をまず降らせた深い理由がある」とあるように、はじめからこの深い由縁があったため、御霊の鏡を最後に鎮座すべき場所へ導き送るためであった。そのため天降りの時に、皇孫の命に付き添って、この鏡を頂き齋きながら降った五伴の緒の神たちは、その道案内の神の言うままに、自然の成り行きとしてまず伊勢の国に天降ったのだ。

 

「天照大神が初めて地上に降りられた」というのは、この時のことである。そうでなければ、日向へ天降った皇孫の命を案内した神が、伊勢に降ったということには、何の由縁もなく、無駄な話である。上記のように、かの御鏡はまず伊勢に天降ったのだが、日向に天降ってきた皇孫命のところに送っておいて、猿田彦神は、用済み後に伊勢に帰ったのだ。この間のことは、後でもっと詳しく言う。この鏡は、片時といえども皇孫命の側を離れてはいけないはずなのに、伊勢と日向に分かれて天降ったのはどうかと疑う人もあるだろうが、天上から遙かに降ったのだから、日向と伊勢は離れていると言っても、同じ葦原の中つ国であり、やはり一つ所に降り着いたと言えるだろう。だから後でまた伊勢に遷したけれども、初めの大御神の詔に違わなかったのも、同じ皇国の内だったからである。】

 

「あるいはいわく、天皇は倭姫命を御杖代として、天照大神に仕えさせた。そこで倭姫命は、磯城の嚴橿之本(いつかしのもと)に鎮座させて祀った。その後神の教えに従って、丁巳年冬十月の甲子に、伊勢國渡遇(わたらい)の宮に遷した。」とあるのがこれである。

0 件のコメント:

コメントを投稿