2017/11/24

三大考(2)

第一図



この円は虚空を表わす。現実にこうした円形のものが存在するわけではない。以下も同じ。

 

古事記によると

「天地の初めの時、高天の原に生まれた神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、その次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次いで神産巣日神(かみむすびのかみ)であった。云々」

 

この時は、まだ天地もなく、すべてただ虚空であった。天と地の生まれた初めは、次の部分に述べられている。それをここで天地の初めと言っているのは、後から言ったのであって、要するにこの世の初めを言っている。それに「高天の原に」と言うのも、まだこの時には高天の原はないが、この三神の生まれたところが後に高天の原という名になったから、そう言っているに過ぎない。

 

第二図



輪の中の三つの点は、前述の三柱の神を表す。

 

書紀によれば

「天地の初めの時、虚空の中に一つの物が生まれた。その形や色は言葉にできない」

あるいは

「天地がまだ生まれなかった頃、たとえば海原の雲が、どこから生まれたともなく、ただ空に浮かんでいたように」

あるいは

「天地の初めに、虚空に葦芽(あしかび)のようなものが生え出た」

また

「浮き脂のようなものが虚空に発生した」

などという。

 

このように書紀の各所伝は、少しずつ違いがあるけれども、すべてを考え合わせると大体のところは分かる。「天地初判(天地の初めて分かれたとき)」というのは、単に漢文に似せたに過ぎない。「判」の字にこだわってはいけない。「天地未生之時(天地がまだ生まれなかった頃)」という文もある。また「虚中」、「空中」ともあるので、その時はまだ天も地もなかったことが分かる。

 

日本書紀は漢文を真似た修飾を加えているので、細かく見ると文字の意味合いがぴったりしていない点が多く、漢籍に引き寄せられて、いにしえの伝えの趣旨がまぎらわしいものになってしまっているから、注意すべきである。

 

○記では、この一物が生成したことは書かれていないが「次に国稚(わか)くして云々」とあるので、すでに一物が生まれたことは分かる。

 

○一物が生まれた後、次第に第十図に示すように成り終えるまで、すべての生成の過程は高御産巣日神・神産巣日神の産霊(むすび)によっている。その産霊はきわめて霊妙なものであって、その働きをわれわれの理屈で推し測ることはできない。この天地の初めを太極・陰陽・乾坤などという理屈で賢げに説く漢国人の説などは、すべてが産霊の神霊によって成り立っていることを知らないための妄説に過ぎない。

 

第三図





記によると

「次に国がまだ稚く(わか)、浮脂のように『くらげなすただよえる』時、葦の芽のような萌え上がるものによって生まれた神の名は宇麻志葦牙比古遲(うましあしかびひこじ)の神、次に天之常立(あめのとこたち)の神、云々」。

 

前記の初めて生まれた一物は、浮脂のように虚空に漂っていた。その中から、葦の芽のように萌え上がるものがあった。これが後に天になったものである。天になるべき物がすっかり萌え上がり終わって、その跡に残った物は固まって地になった。しかしこの時には、まだ海と国土の区別もなく、すべてが入り混じったまま、ふわふわと漂っているばかりであった。

 

第四図




(これ以降の図は、外周の円を省いてある。紙の地を虚空と考えよ。)

地に生まれた十二柱の神は、記の文の順序に従ったまでである。必ずしもこれにこだわることはない。

○黒白に分けて示したのは、黒いのは「身を隠した」とある神々である。

 

記には

「次に生まれた神は国之常立神、・・・上のくだり、国之常立神から伊邪那美神まで、合わせて神世七代という」

これを天神七代と呼ぶのは、後世の俗説である。この神々は天神ではない。地に生まれた神である。

 

○前記、葦の芽のように萌え上がるものは次第に高く登り、次第に出来上がって天になったが、その跡に残った後に地となった部分は、まだ固まらないで混沌として漂っていた。

 

○記によると、伊邪那岐命は、愛妻の伊邪那美命にもう一度会いたいと思って、黄泉の国に追って行ったという。つまり黄泉という国があった。しかし、その黄泉の生まれた初めのことは、記にも書紀にも述べられていない。伝えがないから、確かなことは知ることができないが、前記のように萌え上がるものがあって天になったことから考えると、一物から垂れ下がるものもあって黄泉になったのであろうか。それは根の国・底の国とも言って地下にある国だからである。そこで、そういう意味でこの図を描いた。

 

「泉」と書いた部分がそうである。泉の字は、漢文を借りたに過ぎず、この字について論じても始まらない。それが垂れ下がって生成したのは、天が萌え上がって成立したのと、どちらが先でどちらが後なのか分からない。理屈で推測するのは例の漢意であって、妄説である。なおこの黄泉のことは、第七図のところで詳しく言う。

 

○これ以後、天・地・泉が分かれ、次第にその距離が開いていって、ついには第十図のようになった。

2017/11/22

殷(1)



(いん、拼音: Yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、チャイナの王朝である。文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されているチャイナ最古の王朝である。(しょう、拼音: Shāng)、商朝とも呼ばれ。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。

王朝名の殷
殷墟から出土した甲骨文字には、王朝名および「」は見当たらない。周は先代の王朝名として「」を用いた。殷後期の首都は出土した甲骨文字では「」と呼ばれた。

二里岡文化
鄭州市の二里岡文化(紀元前1600年頃 - 紀元前1400年頃)は、大規模な都城が発掘され、初期の商(殷)王朝(鄭州商城、建国者天乙の亳と推定)と同定するのが通説である。

偃師商城
偃師の尸郷溝で、商(殷)王朝初期(鄭州商城と同時期)の大規模な都城が見つかっている。これは二里頭遺跡から約6km東にある。

洹北商城
殷墟のある洹水のすぐ北に、殷中期の都城の遺跡が発見されている(花園荘村)。文字を刻まず占卜した獣骨が出土している。殷中期に至っても文字資料は殆ど出土していない。

殷墟
現安陽市の殷墟(大邑商)は、紀元前1300年頃から殷滅亡までの後期の首都。甲骨文が小屯村で出土することが契機で発掘が始められ、その地区が宮殿および工房と考えられ、首都の存在が推定された。都城の遺跡は見つかっていない。洹水を挟んだ北側では、22代王の武丁以降の王墓が発掘されている。甲骨文からも、ここに都を置いたのは武丁の代からと考えられるが、竹書紀年では19代王の盤庚によるとある。

甲骨文字
殷の考古学的研究は、殷墟から出土する甲骨文字(亀甲獣骨文字)の発見により本格的に始まった。これにより『史記』にいうところの殷の実在性が疑いのないものとなった。甲骨占卜では上甲が始祖として扱われ、天乙(名は唐)が建国者として極めて重要に祀られている。以下、史書に基づく。

歴史
商の名前は『通志』などで殷王朝の祖・契が商に封じられたとあるのに由来するとされ『尚書』でも「」が使われている。

創建以前
伝説上、殷の始祖は契とされている。契は有娀氏の娘で帝嚳の次妃であった簡狄が、玄鳥の卵を食べたために生んだ子とされている。契は帝舜のときに禹の治水を援けた功績が認められ、帝舜により商に封じられ子姓を賜った。その後、契の子孫は代々夏王朝に仕えた。また契から天乙(湯)までの14代の間に、8回都を移したという。

天乙
契から数えて13代目の天乙(湯)は、賢人伊尹の助けを借りて夏王桀を倒し(鳴条の戦い(チャイナ語版))、諸侯に推挙されて王となり、亳に都を置いた。
殷の4代目の王太甲は、暴君であったために伊尹に追放された。後に太甲が反省したので、伊尹は許した。後、太甲は善政を敷き太宗と称された。

王雍己の時に、王朝は一旦衰えた。王雍己の次の王太戊は賢人伊陟を任用し、善政に努めたことで殷は復興した。王太戊の功績を称えて、王太戊は中宗と称された。中宗の死後、王朝は再び衰えた。王祖乙は賢人巫賢を任用し、善政に努め、殷は再び復興した。王祖乙の死後また王朝は衰えた。王盤庚は殷墟(大邑商)に遷都し、湯の頃の善政を復活させた。

王盤庚の死後にも王朝は衰えた。王武丁は賢人傅説を任用し、殷の中興を果たした。武丁の功績を称えて彼は高宗と称された。武丁以降の王は、概ね暗愚な暴君であった。王朝最後の帝辛(紂王)は即位後、妃の妲己を溺愛し暴政を行った。そのため周の武王に誅され(牧野の戦い)、殷はあっけなく滅亡した。

殷の王位継承
殷の王位継承について、史記を著した司馬遷は、これを漢の時代の制度を当て嵌め(漢の時代になると、いくつかの氏族で君主権力を共有することなど考えられなかった)、親子相続および兄弟相続と解釈したが(右記図表)、後年の亀甲獣骨文字の解読から、基本は非世襲で必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。

仮説によると、殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、不規則ではあるが、原則として「甲」、「乙」、「丙」、「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、定期的に王を交替していたとする。それ以外の「戊」、「己」、「庚」、「辛」、「壬」、「癸」の6つの氏族の中から、臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測される。

上記と関連して、殷の王族は太陽の末裔と当時考えられており、山海経の伝える10個の太陽の神話は、殷王朝の10の王族(氏族)の王位交替制度を表し、羿(ゲイ)により9個の太陽が射落されるのは、一つの氏族に権力が集中し強大化したことを反映したものとする解釈もある。
※Wikipedia引用

2017/11/21

深草

 京都市の南部、名神高速道路が走っているあたりに、「ふかくさ(深草)」という地名があります。龍谷大学や京都教育大学のキャンパスがあることで、ご存知のかたもおありでしょう。戦前、ここに旧日本軍の師団がおかれ、京都の人たちは近くを走る国道24号線のことを「師団街道」と読んでいました。

 

源氏物語の深草の少将をはじめ古典文学・芸能に登場する地名で、その昔は都のはずれで草深いところだったことは間違いなく、それでこんな地名がついたのだろうと思っていましたが、どうやら違うようです。

 

 地名研究書を読んでみると、その謎を解くカギは、同じくこのあたりにある地名の「ふじのもり(藤森)」「ふじお(藤尾)」の「ふじ」にあるようです。このあたりに「ふじ(藤)」の木がたくさん自生していて、季節になると「藤の花」が咲き誇り、みんながめで楽しんだというのなら、「ふじのもり(藤森)」も「ふじお(藤尾)」という地名もなるほどと納得できるのですが、そういう藤の群生地は見当たりません。

 

 吉田金彦先生の『京都の地名を歩く』には「藤森」「藤尾」の「ふじ」は「藤の花」の「藤」ではなく、先生の説を要約すると、昔の言葉で人が行き来することを意味する「経(ふ)」と、道路を意味する「道・路(みち)」が一つになり、昔は「フ・ミチ」と言っていたのがいつしか「フジ」と言うようになった、とのことです。「宇治(うじ)」が「畝(うね)」の「う」と「道・路(じ)」が一つになったもので、「畑の畝のようにもりあがった都への路」を意味するのと同じだという説です。

 

 それで、「ふかくさ」とは、そういう道=経(ふ)があるところを意味し、「ふ(経)」と場所を意味する「か(処)」が一つになって「ふか」となり、さらにこのあたりが湿地帯であったことから、湿地であると同時に採草地も意味する「くさ」とがくっついて「ふかくさ」と呼ばれるようになり、そこに「深草」という漢字が当てられたというのが地名ルーツではないかというわけです。

 

 ただ、この「ふか」については、吉田先生の「経(ふ)処(か)」とは異なる説もあります。それは各地の「深川(ふかがわ)」「深日(ふけ)」「深田(ふかだ)」「深谷(ふかや)」「深津(ふかつ)」など、「ふか」がつく地名に共通することなのですが、「ふか」は湿地を意味する「泓(ふけ)」がルーツで、「くさ」も湿地を意味する、いわゆる重ね地名だという説です。確かに、このあたりは加茂川の支流がながれていたところで湿地、その伏流水で地下水が豊富でしたから酒造りが行われたので、この説も捨てがたいのではないでしょうか。

 

夕されば野辺の秋風身にしみて

うずら鳴くなり 深草の里

 

古くは紀伊郡に属し、深草郷といった。紀伊郡とは紀氏一族がこの地に勢力を占めていたと伝え、紀氏とは神武天皇の御代、紀伊国(和歌山県)の国造(くにのみやつこ)になった天道根命を祖とする古代豪族の一です。

 

神功皇后に仕えた武内宿禰は、紀氏の女(影媛)が考元天皇々子(彦太忍信命:ひこぶとしのぶまことのみこと)と婚して生まれたもので、その子・紀角宿禰(きのつぬのすくね)は奈良時代の中央政界にあって活躍した。特に蘇我氏と同族であるが帰化人の秦氏を配下に国家財政を握り、各地に勢力を扶植した。

 

紀伊郡深草の地も、その一つで先住民を勢力下に吸収、紀氏と共に深草の地盤を築いた伝える事が、藤森神社は紀氏の祖人を祀った氏神社だと伝える由縁です。次いで秦氏が来住し、稲荷ノ神を祀って農耕守護神と崇め、深草一帯の開発に努めた。しかし、蘇我氏滅亡後、紀氏も次第に勢力を失墜し秦氏のみが栄えた。

 

平安時代になると、藤原氏の勃興により多くは藤原氏の荘園となり、一族の山荘、別荘の多くが寺院と共に造営された。桓武天皇や仁明天皇以下、多くの貴紳を当地に埋葬したのは当地が単に風光明媚であったたげでなく、清浄の地でもあったからだと伝える。

 

王朝時代の歌人が深草の風景を詠ったのは、往時はウズラや月の名所として嵯峨に劣らぬ所であった。在原業平も、しばしば当地に住まいしたことがあり、深草少将は当地から小野小町の元へ百夜の間通い続けたなど、古来幾多のロマンスや伝説が今に語り伝えられている。

 

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

深草は、京都市伏見区北部一帯の地で、東山連峰の西麓部にあたります。この地名は、『日本書紀』欽明即位前紀に秦大津父(はたのおほつち)の居住地としてみえます。ここは秦氏が勢力を占め、伏見稲荷も秦氏が創立したと伝えられています。また、ここは歌枕の地であり、葬送の地でした。『和名抄』は、紀伊郡深草郷を「不加乎佐」と訓じており、「乎」は「宇」または「久」の誤りと解する説があります。

 

 この「ふかくさ」は、

(1) 「草深い地」の意

(2) 「フカ」は「フケ」の転で「湿地」の意

 

とする説があります。

 

 この「ふかくさ」は、マオリ語の

 

「フ・カク・タ」、HU-KAKU-TA(hu=promontry,hill;kaku=scrape up,bruise;ta=dash,strike,lay)、「傷がある(削ってならした)山」

 

の転訛と解します。

雑食性化した食生活(日本の食文化とは何か/農林水産庁Web)

8 食生活スタイルを環境保全型に再構築を

振り返ってみると、19世紀までの人類は飢餓に悩まされ続けてきた。食べ物が欠乏するとヒトは非常、非道になり、諸々のタブーなどの約束事などは飢えを癒す上で、いかほどの障りにもならなかった。

 

食べ物に多少のゆとりができたのは、20世紀になってからのことである。現在の日本人は、進歩した食品保蔵・輸送・加工技術と、地球規模にまで広げた食料確保の体制を利用して、有史以来、最も豊かな食生活を享受している。しかし、これからの日本人の食生活が、現在の豊かさの延長線上にあるとは考えられない。私達は質と量の両方に関わる、重大にしてかつ緊急な食料問題を抱えているからである。

 

まず、私達が超雑食性になってしまったことである。これは、スーパー・コンビニ症候群と呼称すべきかも知れないが、個人の嗜好と食欲が押し枉げられた偏食と飽食のせいで、がん、心臓病、糖尿病、メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)などの生活習慣病が蔓延している。各種の調査結果を見ると、家庭内の食行動、食生活スタイルも正常ではなくなってきた。過半の若年層が朝食を孤食もしくは外食し、あるいは欠食し夕食を家庭で食べない。13食食べない食生活=“崩食”している人や、健康への影響や栄養効果を考慮しない、成り行きまかせの食生活=“放食”している割合も増加の一途をたどっている。

 

伝統社会や途上国社会では、現在でも慢性的な食料不足に悩んでおり、さらに地球全体の人口増加と畜産物の消費が増えたために、世界の穀物需要が逼迫している。

 

世界人口時計(http://arkot.com/jinkou/)によると、地球上の人口は2006225日に65億人を超え(201024日正午現在で684577万人、毎日22万人増加)、2050年までに100億人を超えると予測されている。はたして地球は100億人を、心身ともに健全な状態に養うことができるだろうか?

 

中国、インドでは現段階で、すでに穀物の消費量が生産量を上回っている。中国は1995年以来の食肉消費の増大によって、穀物在庫を大規模に取り崩している。年に80億ブッシェル(約23000t)の穀物が家畜飼料に転換され、このまま進むと20109月には世界の穀物在庫が空っぽになる可能性がある、と危惧されている:http://www.juno.dti.ne.jp/~tkitaba/agrifood/foodsecurity/news/08050201.htm。その一方で、米国ではトウモロコシを主な原料にする代替燃料エタノールの生産が急増し、豊作なのに20082009年のトウモロコシ価格が2005年の2倍近くに跳ね上がり、その余波は他の穀物、例えばコメの価格上昇を導いている。

 

我が国が抱えている食料問題も深刻である。食料の供給と消費を11人当たりのエネルギーで比較してみると、供給量はほぼ2,600 kcal前後と変わりなく推移してきたが、70年代にはほぼ2,200 kcalであった摂取量が、2008年には1,883 kcal (20歳以上)に低下した。供給量と摂取量の差が廃棄された食料の量に等しいとすると、70年代には消費エネルギーの18%相当量が廃棄されたのであったが、2008年には廃棄されるエネルギーは30%近くまでになった。供給エネルギーと消費エネルギーの差は、年々拡大しているのである。平成18年度における、日本の飼料用を含む穀物自給率は27%で、カロリーベースの自給率は連続横ばいの40%であった。これでは「世界中から穀物をかき集めて、まさに飽食し食べ散らかしている」と言われても抗弁することができない。

 

今日の社会経済システムの中では、個人の食生活スタイルを再構築しても、その直接的な影響はごく些細なものに過ぎないかも知れない。しかし些細と見える変化も、家庭から始まって食料問題、環境問題などに影響を及ぼし、社会経済システム転換の引き金になる可能性を潜ませていることを見逃してはならないだろう。

 

以上は筆者の-巻頭言『食生活スタイルを環境保全型に再構築』、化学と生物、45 (11),739 (2007)-を数値などを新しくしたが、それ以外はおおよそ原文のまま再掲したものである。なお、平成21年度筑波大学生命環境学群生物資源学類が、推薦入学試験の小論文選択問題2問中1問に、これを元の文章のまま用いて、設問2題を与えて回答させた。

 

9 沖縄の長寿食と「26ショック」

沖縄県民は長年、男女ともに長寿日本一だった。ところが、200212月に公表された2000年時点における都道府県別平均寿命表では、女性は全国で1位の86.1歳であったが、男性の平均寿命は77.64歳(全国平均77.71歳)で全国26位に転落した。2005年までの5年間でも、寿命の伸び率は全国で最低であった。このことは沖縄県民にとってショッキングなことで、俗に「26ショック」と呼ばれている。

 

26ショック」の原因は「伝統的な長寿食の食生活から『栄養バランスの崩れた都会型食生活に移行』した結果、多くの成人男子がメタボリック・シンドローム体型になったことにある」、と分析されている。肥満者が多くなった原因として、運動不足(車社会で余り歩かない)、過食、日本の都道府県中で最も高い脂肪摂取量、野菜の摂取不足、過剰な飲酒に加えて、慢性的な失業によるストレスなどが挙げられている。しかし、沖縄県の人口10万人あたりの長寿率、百寿率(人口10万人当たりの100歳以上の高齢者数)は依然として全国都道府県中で首位を占めていることからか、男性の平均寿命が全国で26位に転落した「26ショック」を、当の沖縄男性はさほど深刻に受け止めていないように見受けられる。なお、尚弘子琉球大学名誉教授が「26ショック」に関するブログを公開している:http://longstory.blog.so-net.ne.jp/2009-02-10

 

沖縄食の特徴は「素材」×「調理法」×「摂取法」にあるといわれる。その素材は、ゴーヤ、モズク、パパイヤ、フーチバー、グアバ、島豆腐(木綿豆腐)、根菜類、昆布、黒糖、豚肉(よく食べるようになったのは、戦後のことであるが)などが特徴的である。強い紫外線と亜熱帯性気候のもとで育った野菜類には、抗酸化性物質やミネラルの蓄積量が多くなる傾向がある。飲料水には、琉球石灰岩から湧出した硬度~200程度(那覇市水道水)の、カルシウムやマグネシウムの豊富な水が用いられる。なお本州水道水の硬度は10100、京都市水道水42;伏見の御香水44である。

 

これらの素材を用いて、食材の旨みを損なわない低塩分の調理、長時間煮込んだ後分離してきた豚脂を取り除いた料理、肉と野菜の同時摂取などによって、コレステロール吸収や脂質過酸化の抑制が期待できる。沖縄県人の脂肪摂取量は全国都道府県中で最多量で、従って肥満率も高いが心疾患、脳卒中、がんによる死亡率は最も低い。特徴のある食材(豆腐、豚肉、瓜類、野菜、昆布等);食塩量が少なく、タンパク質とミネラルのレベルが高い食事;温暖な亜熱帯気候とゆったりしたライフスタイル、などを持続することによって、早晩、「26ショック」は払拭されるものと期待したい。

2017/11/20

パルメニデス「論理だけの世界」


 少々前置きが長くなりましたが、こんなことを言わなくてはならないくらい、このパルメニデスの思想というのは、私たちにとって「奇異」に映るものなのです。

まず、今注意したことですが「ある」という言葉がパルメニデスにとって、どういう言葉であったかをはっきりさせておかなくてはなりません。彼の時代には、この「ある」という言葉が「存在」と「言葉の結び付け」という二つの機能をもつ、などという分別的考え方は当然ありません。こんなことに気付いて整理がなされるのは、先にも言った通り後代のことですから。そしてパルメニデスにとって「ある」というのは「存在」の方でした。これは、ある意味当然で「結び付けの言葉」も、たとえば「本は白い」という意味での「本は白くある」というのも「本は白いものとして“ある=存在する”」と捕らえられるからです。こうして、まず「ある」という動詞は「存在」を意味するとされました。

 次に「なる」という言葉ですが、これは当然「××であったものから○○になった」と言う具合に捕らえられます。ところが、これは「××である」ものが「そうで“ない”もの(この場合○○)になった」というに他なりません。さて、先の同意によると「ある」というのは存在でした。しかるに、この場合、この「存在」に「ない」という言葉がくっついたことになります。こんなことがあってたまるか、とパルメニデスは言ってくるのです。「存在」は「存在」なのであって、それに非存在を意味する「ない」などという言葉がくっつくわけがない、というのです。

ということになりますと、一切の「なる」ということはあり得ないことになってしまいます。パルメニデスの主張していることは殆どこれに尽きますが、ガスリーの言うように、一見まるで無意味な言葉の遊びみたいに見えます。しかし、ここには「ある」という事態をとことん理屈で追い込んでいく「理性」の営みがあるのです。ここには、物事を徹底的に抽象的に捕らえる態度があり、そして外界の経験的事実が何を示しているか、などということには全く無頓着に、ただ理屈だけの世界に閉じこもって考察していこうという、恐るべき徹底した態度があるのです。そして、現代人が物事を抽象的に捕らえ、思考の上ではどういう結論になるのかを考えられるようになったのは、実はこうしたパルメニデスたちの仕事のおかげなのでした。

 もっとも、これもガスリーが触れていることですが、こうして始められた抽象的な思考がヨーロッパを誤らせる原因となった、と皮肉に評価する人もおりますが、ともかく善かれ悪しかれ、こうしたヨーロッパの学問に特徴的な、事実にのみとどまるのではなく、それを越えた「抽象概念(この場合は具体的な存在事物ではなく、そこから抽象された「ある」という抽象概念)」を思考するようになった最初の事例を、ここに見ることができるのです。

 こうして、パルメニデスの言ってくることは全く論理的で、その通りといわざるを得ない結果となってきます。すなわち、「なる」ということは「変化・運動」ですから、まずこれが否定されてきます。なぜなら、変化や運動があるためには「“ある”もの」が「“あらぬ”もの」になったり「“あらぬ”ところ」に行くのでなければなりませんが「ある」に「あらぬ」をくっつけることなどできないのだから、こんなことは不可能だというわけです。

 一方、運動はもう一つ別の理由からもあり得ない、とされました。それは「空間の否定」と言われているものが根拠にされるのですが、つまり運動の起きる空間というのは「何もない空虚」という意味でなければなりません。なぜなら何かがあったのでは、ぶつかって動けません。しかし、それを認めることは「ない」が「ある」ということを認めるということであって、そんなことはできるわけがないとなります。そうなると、つまり空間は「すべて詰まっている」筈なのであって、運動のおき得る「空間」なんてある筈がないということになります。ということは「隙間」もないということに他なりませんから、宇宙は全く一つなるものの充実体で、永遠にして不動、全く「動き」というもののない「完全なる静止の世界」ということにならざるを得ません。

 では、この「運動・変化してやまないこの世界」はどう理解するつもりなのだ、と文句をつけたくなりますが、パルメニデスは「それは幻想だ」とあっけなく切り捨てます。だからといって、パルメニデスはじっと家に籠りつづけ、息もしないでいた、というわけのものではないでしょう。パルメニデスの主張したかったことは、常識を優先させ、常識に合わせようと物事を考えるのではなく、むしろ物事は物事として何を示してくるか、ということを「論理的」に考えてみて、その論理を元に物事を改めて考えてみるべきだ、ということだったでしょう。

 実際、この論理というのは常識を越えて世界なり物事のありようということを考えさせていくことになるのです。その実例をパルメニデスの愛弟子のゼノンによって提示された問題で考えて見ましょう。それは全く「常識」には合いません。しかし、その言ってくることを論駁するのは至難の技です。私たちは、その難問を示されて改めてこの世界のありよう、空間とは何なのか、時間とは何なのかを考えて行かざるをえなくなるのです。この難問を簡略に示すことで、パルメニデスたちの思考のありようを考えて見ましょう。