<武蔵野台地を構成する淀橋台地のうち、高輪台の先端にあたる丘陵。目黒川の左岸、北品川地区の西部に位置し、丘陵の東は海、西と南側を目黒川が流れ北には台地が継続している。御殿山の名称は、太田道灌が江戸城を築く前の長禄(1457-60)の頃に屋形を構えていたという伝承に由来するとの説もあるが、後述の「品川御殿」から命名されたと考えられる。
八ツ山の峰続きにあって、その昔、太田道灌の館があったと伝えている。現在、西品川の三ツ木に城山という小名があり、古道に面した台地で、太田道灌の館跡とも、品川氏又は宇田川氏の館跡とも伝え、地形上から見ても御殿山よりふさわしい(品川区の歴史)。
しかし御殿山は品川湊、江戸湊、木更津の動向を見てとれる。太田道灌は江戸をみていたのだ。御殿山の名は、近世初期に、ここに将軍家の御殿が造られたための呼称。桜の木が多く植えられ、花見時はには特に開放され、多くの人々で賑わったことは、浮世絵や錦絵などに描かれている。日暮れともなれば、眼下の品川宿さんざめきが聞こえ、そのまま遊んで帰る人も多くあった。江戸の文学作品にあらわれている>
ここで出てくる「御殿山」は品川だが、武蔵野市のウチのすぐ近くにも御殿山がある。どうやら都心には何か所もの「御殿山」があるそうで、いずれも徳川将軍家の仮御殿や鷹狩り、鹿狩りの為の休憩舎(御殿)があったことに由来するとか。地方にある御殿山は、身分の高い人の住んでいる屋敷や社殿等があったことに由来するらしい。
八王子の場合、鑓水(やりみず)御殿山のことだろうが、海堡(台場)を構築するために、この鑓水御殿山界隈の松、雑木あわせて4万2千本が杭木として調達されたとのこと。
ちなみに似たような名前の静岡の「御殿場」の由来は、以下の通りである。
<大阪夏の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川家康は、駿府(静岡市)から江戸(東京)への交通路を整備しはじめました。その途中の宿泊地(=御殿)に選ばれたことから「御殿場」という地名は生まれました>
平安時代に伊勢神宮の荘園(大沼鮎沢御厨)があったことから、現在の御殿場市、小山町、および裾野市の一部は「御厨」と呼ばれた。1616年に亡くなった徳川家康の遺体を久能山東照宮から日光東照宮へ移送する際に仮の御殿を建てて、遺体を安置したところから「御殿場」という地名は生まれた。御殿の位置は御殿場高校そばの吾妻神社付近だったとされている。御殿建設の際に各地から職人が集められ、御殿場市御殿場付近の町「御殿新村(御殿場村)」が形成された。
https://www.city.gotemba.lg.jp/museum/
御殿場という地名の由来は、徳川家康が最晩年に市内御殿場の地、現在の吾妻神社から県立御殿場高等学校付近に隠居所となる御殿の造営を命じたことに由来します。この御殿は徳川家康の存命中には完成せず、残念ながら徳川実紀などの記録にも登場しません。
しかし、徳川家康が亡くなった直後の元和2年(1616)4月に、沼津代官の長野九左衛門清定が、御厨地方の有力者であった芹澤将監(しょうげん)に御殿新町御屋敷の造営を継続するよう命じた書状の写しが残されています。
その後の御殿については、徳川家や江戸幕府が使用した記録がなく不明ですが、小田原藩が寛永10年(1633)に御厨地域を領地に編入した後、この御殿は修理され藩主の稲葉氏が巡検や鷹狩りの際に度々、使用したことが分かっています。
この御殿も、貞享3年(1686)に小田原藩主が大久保家に代わった際に取り壊され、現在は吾妻神社付近にわずかに土塁が残るのみとなっています。
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