2018/06/30

日本が決勝トーナメント進出(ワールドカップサッカー2018)

ワールドカップサッカー2018のグループリーグが終了した。

■グループA
 第2節を終えた時点で、既に決勝トーナメント進出を決めていたウルグアイとロシアが最終節で対決し、順当にウルグアイが勝利。「強い」という強烈な印象こそないウルグアイとしては、ロシアの「開催国特権」の恩恵に与り、グループリーグの中で最も強敵がいない楽な組み合わせに恵まれたと言える。「得点5、失点0」と、ゆとりある3連勝でトーナメント進出を決めた。

■グループB
 スペイン、ポルトガルという「2」が順当に勝ちあがった。とはいえ、両チームとも格下と思われたイラン、モロッコに苦戦を強いられ「12分」と、案外に苦しんでの勝ち上がりだ。やはり強豪と言えど、そんなに簡単に勝てるものではないということか。

■グループC
 フランスとデンマークが「順当」に勝ちあがり、波瀾のないグループである。

■グループD
 「本命」アルゼンチンのもたつきで混戦を極めた。あわやグループリーグ敗退かと思われたアルゼンチンが、最後にようやくナイジェリアを破りギリギリ2位通過。1位はアルゼンチンを「3-0」と一蹴したクロアチアで「得点7、失点1」の3連勝は完璧に近い出来栄え。

■グループE
 ブラジル、スイスが順当に勝ち上がった。ブラジルも、ここまで圧倒的な強さは感じさせないものの、無難に勝ち上がってきた印象か。

■グループF
 最大の波瀾となったのが、この「死のグループ」だ。
2節で強敵のスウェーデンを破った時点で「トーナメント進出間違いなし」と思われた優勝候補のドイツが、最終節で「弱小」K国にまさかの惨敗。それも終了間際のロスタイムで2点を許すという、王者にあるまじき「醜態」を演じた。まだグループリーグが終わったばかりだが、恐らく「今大会最大の大番狂わせ」と言って過言ではなかろう。
緒戦でドイツに勝ち、第2節まで頭ひとつ抜けた感のあったメキシコが最終節でスウェーデンに大敗し、終わってみればスウェーデンが1位。2敗のドイツは、まさかの最下位となった。

■グループG
 前評判の高かったベルギーと、イングランドが順当に勝ち上がり、最終節の直接対決を制したベルギーが3連勝。出場国最多となる3試合9得点(失点2)が示す通り、攻撃陣の爆発力は脅威だ。

■グループH
 グループFと並ぶ波瀾の結果となったのが、このグループだ。
 なんと日本が「まさかのトーナメント進出」を決めてしまった。最終戦は見どころのないつまらない試合に終わってしまったものの、「おまけ」で出て来ていたような数年前とは見違えるように、すっかり堂々たる戦いぶりで、遂に「アジア勢唯一の決勝トーナメント進出」の快挙を成し遂げた。緒戦で日本に不覚を取りながら、やはり地力で勝るコロンビアが1位通過はさすが。

2018/06/29

兄猾と弟猾(1)

古事記

8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送って、これを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。

 

9月、磐余彦は高倉山に登ると、八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祇を祀り、勝利を祈願した。

 

10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。

 

11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。

 

この宇陀には、兄宇迦斯 自宇以下三字以音 下效此也(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)と云う兄弟が住んでいた。まず兄宇迦斯に八咫烏を遣いに出し

「今、天神御子がお着きになられた。あなたたちはお仕えするか」

と尋ねさせた。

 

兄宇迦斯は、鳴鏑(かぶらや)で遣いの八咫烏を追い返した。その鳴鏑が落ちた所を訶夫羅前(かぶらさき)と云う。更に、待ち伏せて天神御子を攻撃しようと考え、兵士を集めたが、十分に集めることができなかったので、「お仕えいたします」と嘘をつき、大殿(立派な屋敷)を建て、その中に押機(おし)を作って待ち構えた。

 

それより先に、弟宇迦斯が神倭伊波禮毘古命の処に参上し

「私の兄の兄宇迦斯は、天神御子の使いを追い返し、待ち伏せして攻撃しようと考え、兵士を集めようとしましたが集まりませんでした。そこで、殿(迎えの館)を建て、そこに押機を作り、取り殺そうとしております。そのことを正直に申し上げるために参上いたしました」

と申し上げた。

 

そこで、大伴連等之祖(おほとものむらじらのおや)の道臣命(みちのおみのみこと)と久米直等之祖(くめのあたひらのおや)の大久米命(おほくめのみこと)の二人が、兄宇迦斯を呼び出し、罵声をあびせて

「伊賀 此二字以音(いが、おまえ)がお仕えすると云って立てた立派な屋敷に、意禮 此二字以音(おれ、おまえ)が先に入り、お仕えすると云うことの始末を明らかにせよ」

と言って、握横刀之手上(たちのたかみをとり、太刀の柄に手を掛け)、矛由氣 此二字以音(ほこゆけ、矛(ほこ)を突きつけ)、矢刺而(やさして、矢を向けて)、大殿に追いやると、兄宇迦斯は自分が作った押機に打たれて死んだ。そこで、この地を宇陀之血原(うだのちはら)と云う。

 

日本書紀

・八月二日 天皇は、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼び出された。猾、これを字介志(うかし)と云う。二人は菟田縣の魁帥、これを比登誤廼伽弥(ひとごのかみ)と云う(首領・主)であった。兄猾の方は来ないで、弟猾だけが帰順した。弟猾は「兄猾が反逆を企てている」と申し上げたので、道臣が状況を偵察したところ、弟猾の言が眞実だったことが判り、道臣が兄猾を誅殺した。その時、兄猾の血が踝(くるぶし)をひたしたので、その地を血原(ちはら)と云う

 

弟猾は、勝利を祝って、牛(肉)・酒を準備して宴会を催した。天皇は、牛・酒を皆に分け与えて、御謡(みうたをよまれた) 謡、これを宇多預瀰(うたよみ)と云う。

 

莬田の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし くぢら障り 前妻が 肴乞はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻が 肴乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね

莬田の高城で鴫を捕る罠を仕掛けた。待っていると、鴫が掛からず勇ましい鷹が掛かった(鯨が掛かった。)。古女房がおかずをねだったら、ソバのような実の少ないところをいっぱい削り取って渡せ。若い後妻がおかずをねだったら、イチイガシのドングリのような実の詰まったところをいっぱい削り取って渡せ

 

その後、天皇は吉野の様子を知るために、自ら兵を率いて見て廻られると、井戸から光り輝き尾のある人が現れた。天皇が「あなたは誰」と尋ねると

「私は、この地の國神である井光(ゐひか=吉野郡吉野町飯貝)という」

と言った。この國神が吉野首部(よしののおびとら)の始祖(はじめのおや)である。

 

更に少し進むと、磐石(いは)を押し分けて尾のある人が現れた。天皇が「あなたは誰」と尋ねると「私は磐排別(いはおしわく)の子です」と言った 排別、これを飫時和句(おしわく)と云う。これが國樔部(くずら)の始祖である

 

次に川に沿って西に行かれると梁、これを揶奈(やな)と云うを使って漁をしている人がいた。天皇が問われると、「私は苞苴擔 これを珥倍毛菟(にへもつ)と云うの子です」と言った。これが阿太(あた=奈良県五條市)の養鸕部(うかひら)の始祖である。

ペルシア戦争(1)



1次ペルシア戦争
 BC492年、イオニアの反乱に対する報復のため、ペルシアのダレイオス1世(ダリウス1世)は、ギリシアに向けて出陣した。ペルシア艦隊はエーゲ海北部の海岸線に沿って進んだが、アトス山のある岬沖を通過中に猛烈な嵐に遭遇し大損害を被った。また陸を進んだ遠征軍も、マケドニアで夜襲を受け撤退した。
 ペルシアは、ギリシアの各都市に降伏を勧告したが、アテネとスパルタは拒否した。

2次ペルシア戦争
 BC490年、ダレイオス1世は再び軍を動かした。ペルシア軍を先導したのはアテネを追われた元僭主のヒッピアスだった。ペルシア軍は、まずイオニアの反乱を支援したエレトリア(Eretria)を征圧し、アテネに向うためマラトン(Marathon)に上陸した。アテネの将軍ミルティアデス(Miltiades)は重装歩兵を率いて迎え撃った。

 数日のにらみ合いを経て戦闘が始まり、2万のペルシア軍と1万のアテネ軍が激しくぶつかった。ギリシア軍は、重装歩兵密集陣でペルシア軍を押し返し勝利を手にした(マラトンの戦い)。

 戦いが終わって、エウクレス(Eukles)が完全武装のままアテネまでの35kmを走り、「我ら勝てり」と言って息絶えた。この故事を記念して、第1回オリンピック・アテネ大会でマラトンからアテネまでのマラソン競技が行われた。

3次ペルシア戦争
 ダレイオス1世は、次の遠征の準備中に亡くなった。BC480年、後を継いだクセルクセス121万の大遠征軍を率いて攻めてきた。
 ペルシア軍はテッサロニキから南下し、ギリシア軍と、テルモピュライでぶつかった。スパルタ王レオニダス(Leonidas)指揮下の6000人の守備隊は善戦し、海と山に囲まれた隘路でペルシア軍の進撃を食い止めた。

 苦戦するペルシア軍は、海岸線を迂回する間道を見つけ、ギリシア軍の背後に兵を回り込ませた。前後を大軍に包囲されたレオニダスとスパルタ兵は、壮絶な最後を遂げた(テルモピュライの戦い(Thermopulae))。勢いに乗ったペルシャ軍は、アテネを占領した。アテネ市民は、南のサラミス島へ逃げ込んだ。

 アテネの将軍テミストクレスは、狭い水道にペルシア艦隊を誘い込む作戦をたてた。スパイをペルシア軍に送り、ギリシア海軍がサラミスから撤退していると偽の情報を流した。クセルクセスはサラミスを封鎖すべく、500隻の艦隊を水道に突入させた。そこにギリシアの三段櫂船(トリエレス)310隻は、追い風にのって襲いかかった。ペルシア艦隊は身動きが取れず多くの船を失い、クセルクセスは戦意を喪失して撤退した(サラミスの海戦)。

ペルシア戦争終結
 サラミスの敗戦後、クセルクセスはペルシアに退却した。しかし、15万人のペルシア軍は北方で越冬し、依然としてギリシアは大きな脅威にさらされていた。BC479年、ペルシア軍は南へ進撃を開始した。アテネは再びサラミスに疎開し、スパルタやコリントスに救援を要請した。ギリシア連合軍とペルシア軍はプラタイアで会戦し、スパルタ軍の活躍でペルシア軍を撃破した。スパルタ軍は、レオニダスの復讐を果たすことができた。

 また同じ頃、イオニアのミカレ岬(Mykale)にギリシア軍が上陸しイオニアを防衛するペルシア軍との戦いが行われた。ここでもギリシア軍が勝利し、ペルシアはイオニアから撤退した。

 BC449年、カリアスの和約で小アジアのギリシア植民都市の独立が保障され、ペルシア戦争は終わった。サラミスの海戦を指揮したテミストクレスは、その後大いに羽振りをきかせたが、陶片追放でアテネを追われ、ペルシアに亡命した。

デロス同盟
 この戦争で中心となって戦ったアテネは、ペルシアの報復に備えてデロス同盟を結成する。デロス島にアポロン神殿が起工され、同盟の金庫が置かれた。加盟国は、艦船を派遣するか、資金提供の義務を負った。

 加盟国は、エーゲ海のほとりの200カ国に達した。アテネは同盟から離叛する国を攻撃したり、民主制を強要するなど横暴的な態度が目立った。また、BC454年にデロス同盟の金庫がアテネに移される。

【ペリクレス時代】(Pericles BC443BC429
この時代にアテネの民主制は完成し、絶頂期を迎える。18歳以上の男子市民なら、誰でも国政に参加できる直接民主政で、公職担当者は抽選で、将軍職は選挙で選んだ。ペリクレスは、将軍職に15年連続して選ばれた。詩人のアイスキュロスやソフォクレス、歴史学者のヘロドトス、哲学者ソクラテスなど名高い芸術家や学者が現れた。ギリシア文化は後のヘレニズム文化、ローマ文化に影響を与えた。

スパルタ
 スパルタは、ドーリア人が先住民を征服して建設したポリスで、民主制を採用しない特殊な国だった。スパルタには3種類の身分があり、一番上が征服者であるスパルタ人、その下が自由民であるが参政権のないペリオイコイ、一番下が奴隷のへロット。スパルタは奴隷の人口が多く、少ない市民で奴隷を支配するために、スパルタ人を強くするスパルタ教育を行った。

 赤ちゃんが産まれると長老がチェックし、障害者や虚弱児は捨てられた。7歳になると親元を離れて寄宿舎生活に入り、30歳まで集団生活をする。男同士の団結はものすごく、スパルタ陸軍の強さの一因となっていた。30歳になると兵役が始まり、家庭を持つことが許された。

ペロポネソス戦争
 デロス同盟の資金をアテネが勝手に使ったり、アテネが帝国主義的な政策を採ったことから、ギリシャ諸都市はアテネから離れていった。BC431年、スパルタやコリントスなどはペロポネソス同盟を結成してアテネと敵対し、ペロポネソス戦争が始まった。

 ペリクレスは籠城戦に持ち込むが、疫病が蔓延し市民の1/3が死亡、ペリクレスも病死した。BC415年、アテネは起死回生を狙ってシチリアに派兵したが失敗、スパルタはペルシアの支援を得て戦いを有利に進め、BC404年にアテネは降伏、デロス同盟は解体した。

 アテネに代わって覇権を握ったスパルタに、アテネ、テーベ、コリントスが同盟して戦いを挑み、BC371年のレウクトラの戦い(Leuktra)でスパルタを破った。ギリシアの覇権はテーベに移るが、その後、テーベの覇権も失われ、ギリシアは慢性的な戦争状態に陥り衰退していった。

 この頃、北方のマケドニアが強力になり、BC338年にフィリッポス2世がギリシアに侵入した。アテネとテーベは迎え撃つがカイロネイアの戦いで敗れ、マケドニアの支配が始まった。

2018/06/27

ソクラテス(13) 「本質」の探究


ソクラテスの「本質の求め」
 ところでここには「人間の優れ」や「善・正しさ・麗しさ」を社会によって規定されているようなレベルのものではなく「本質そのもの」として捕らえる思考がありました。プロタゴラスの場合、「人間の優れ」も「善も正しさ」も社会によって決定されているものでした。したがって、そこでは「幸福の内容」まで決められてきます。社会の定めている「社会的立身出世」がその答えとなります。ですから「知者=ソフォス」という立場を示すことができます。

 しかしソクラテスの立場は、そうではないのです。例えば、正しいという行為も、具体的には様々の姿をとっており、しばしば矛盾をし、なにが「本当には正しいのか、正しくないのかわからない」というのが現実だという認識があります。これはプロタゴラスもそうでしたが、彼はここで「社会の習慣」を取りあえず善・正と認めようという立場を取りました。

 しかし、ソクラテスは徹底して「分からないものは分からない」とする一方で、その分からないものへと「探求の道を進めて行くべきだ」としたのです。このプロタゴラスとソクラテスの分岐点は、プロタゴラスが結局「正しさ」というものを「具体的な場面」でしか考えられなかったのに対して、ソクラテスは「正しさ」というものを「本質的」に考えられることができた点にある、と言えるでしょう。

 「本質的に」とは、一つ一つの具体的な異なった在り方をしているものに共通している「本来的在り方・性質」のようなもので、例えば「人間の本質」というのは個々の異なった人間達に共通していて、その異なっている人達を全員「人間」と呼ぶことができるようにさせている「本来的在り方・性質」のことですが、こういった視点で考える時「本質的」な考え方と言われるわけです。ソクラテスは、個々の具体的で異なった正しい行為に共通していて、それらが異なっているにもかかわらず皆「正しい」と呼ぶことができるようにさせている「正しさそのもの」「正しさの本来的在り方」みたいなもので考えている、ということです。人間についても人間を具体的にとらえるのではなく、全ての人間に共通した「本質的在り方」で捕らえるようになります。

 いってみれば、ここに「ソクラテスの独自性と歴史的意味」とがあるのです。実際のところ「人生への問い」そのものは太古の昔から、人間がいた限りにおいてあったものだと言えます。しかし、それはこの現実の場面から離れることはなく、その限り一つの「限定」のもとでの探求でしかなく、それは先に示したようにソフィストの場面で明確にされてきました。この場面では「人の優れ」や「善・正しさ・麗しさ」は「社会によって決定されている」ので、その社会の価値観に合わせて「どのように」実現させるか、だけが問題になってくるに過ぎません。

もちろん、そこには人間の欲望、情念、また遇運などもありうまくいかないわけで、そこにドラマが生じてホメロスやギリシャ悲劇の物語が書かれることになったのですが、基本的に「ある特定の社会の中の人間」だけしか考えられていないのです。したがって、ここには「普遍性」というものがありません。つまり人間を「本質的」に問題にするという意識はなかったからです。しかし、こんな問題意識は、現代でもなかなか難しいと言えます。こういった問題意識がポイントとなるのです。ソクラテスは「史上初めてこうした本質という観念に気がついて、それを求めた人」となるのであって、その意味で「哲学の始祖」と呼ばれるのでした。

知者の探求
 こうしてソクラテスは「人間の優れについての知の探求」へと入っていきます。そして世に賢者の評判のある人物を歴訪していくことになったといいます。

始めは政治的なリーダー達、ついで文化的リーダーとしての詩人達、そして最後に技術者を訪ね、結論として

政治的リーダーは何も知らない
詩人は立派なことを書いてはいるけれど、その書いていることについて何も知らない
技術者は、その当人の技術についてはよく知っているけれど、しかしそのゆえをもって肝心のこと(人間の優れ)まで知っていると錯誤してしまっている

という結論に達したと告白します。

 ここでの肝心なことというのが、先にいっておいた「人間としての優れ」ないし「善・正しさ・麗しさ」ということになるでしょう。しかし、本当に彼等はそれについて「無知蒙昧」な人達だったのでしょうか。だとすると彼等をリーダーとして認めていたアテナイ市民も、馬鹿ばっかりということになりそうです。そんなことはないでしょう。彼等も一流の人士だった筈です、ただし、それは「プロタゴラス的な場面で」であって、当時認められていた「社会の価値観において優れた人達」だったのです。

 しかし、これがソクラテスの眼からすると「駄目」ということになるのは、プロタゴラス自身が批判されたのと同じ理由においてです。彼等は「アテナイ社会で認められている人間としての優れ」を信じ、「善・正しさ・麗しさ」を前提していたのでしょう。

一方、ソクラテスは「本質的」に考えようとしていますから、彼等の態度は「一つの価値観を盲信している」連中ということになってしまうのです。つまりソクラテスは「人間の優れ」を社会が認めている人間の優れ、すなわち「立身出世」と言った方が早いでしょうが、そうしたレベルでは考えていないということです。ソクラテスは人間も本質的に考え、そのレベルでの「優れ」を考えていますので、それを忘れ、ただ立身出世を考えて偉くなった人達は批判の対象になってしまうのは当然でした。