10月、国見丘に八十梟帥を討ち、さらに多くの賊達を偽りの宴会で誅殺した。11月、磯城を支配する兄磯城を忍坂と墨坂から討伐し、弟磯城が恭順。12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てなかった。すると急に黒雲が空を覆い、辺りも暗くなり叩き付けるように雹が降って来た。そして一筋の光が差したかと思うと、金色の霊鵄が現れ彦火火出見尊の弓先へ止まり、稲光のような瑞光を発した。長髄彦の軍は、眩しくて目も開けられずに降参してしまった。
それでも長髄彦は恭順しなかった。彦火火出見尊が、天神の子であることを疑ったためである。長髄彦は、主君の饒速日尊が持つ神器である天羽々矢一隻と步靫(かちゆき)を見せた。それは本物であり、彦火火出見尊も自分の同じ神器を見せた。これも本物である。長髄彦は彦火火出見尊を天神の子と認めたが、それでも屈服しなかった。そこに饒速日尊が現れ降参するよう長髄彦を説得したが、改める気持ちがない長髄彦は饒速日尊に誅殺されることなった。
己未年2月、彦火火出見尊は精鋭を選んで高尾張などの土蜘蛛を討ち破り、そこを葛城と改めた。また前年に兄磯城を破った場所を磐余と改めた。3月、中洲(大和国)の平定が終わったため、畝傍山のホトリに全軍を招集し、奠都の詔を高らかに宣言した(八紘為宇)。そして畝傍山の東南橿原の地に宮殿を造らせた。そこが今の橿原神宮である。庚申年9月、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。
即位
辛酉年1月1日、橿原宮で天皇に即位して初代天皇となり、正妃を皇后とした。即位日はグレゴリオ暦(西暦)では紀元前660年2月11日であり、現在の日本の「建国記念の日」(旧・紀元節)となっている。
即位2年2月2日、大業を成し遂げることに尽くした人々の功を定め、賞を行った。道臣命は築坂邑に、大来目は畝傍山の西の川辺の地(後の来目邑、現・橿原市久米町)へ居住させ、珍彦(椎根津彦)を倭国造に、弟猾を猛田県主、弟磯城を磯城県主に任じ、剣根という者を葛城国造にそれぞれ任命した。また八咫烏にも賞があった。
即位4年2月23日、天下を平定し終わり、海内無事である旨を詔し、鳥見山中に皇祖天神を祀った。即位31年4月1日、巡幸して腋上の嗛間丘に登り、蜻蛉の臀呫(あきつのとなめ。トンボの交尾する様)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇76年3月11日、橿原宮で崩御。127歳。
翌年(丁丑年)9月12日、畝傍山東北陵に葬られた。
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称され、「神武天皇(じんむてんのう)」と後に諡された。
橿原神宮
『古事記』によると、日向では高千穂宮にいた。東征中に宇佐の足一騰宮(あしひとつあがりのみや、『日本書紀』では一柱騰宮)、筑紫の岡田宮、安芸の多祁理宮(『日本書紀』では埃宮)、吉備の高島宮に立ち寄った。即位後の宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では「橿原宮(かしはらのみや)」、『延喜式』では「畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)」、『古事記』では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記す(白檮はカシと読み、ブナ科の常緑高木でアラカシの別称)。『万葉集』にも「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」が発見出来る。伝承地は奈良県橿原市久米町の橿原神宮。
「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されて行った。幕末から明治には、天皇陵治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋に対して宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現・神楽殿)と成し、橿原神社(明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。
明治44年(1911年)から第1次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際に周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が大正6年(1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。
太古(1万年前 ~ 2500年前)には、奈良盆地は「奈良湖(大和湖)」という湖であった。奈良湖南岸には、縄文時代から大集落(後の橿原遺跡)が存在していた。奈良湖は、6000年前には湖面標高70 mであったが、2500年前に、亀ノ瀬付近に陥没が起こり、水がゆっくりと河内湾に排出されて行き、弥生時代には湖面標高50 mとなり面積は縮小し、古墳時代には消滅した。
昭和13年(1938年)より挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期 - 晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)によると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると当時から2600年前の物であり、その前後の誤差は±200年という事であった。この事から記紀の神武伝承には、何らかの史実の反映があるとする説も存在する。
また、この時期に第2次拡張事業(昭和13 - 15年、1938 - 1940年)が行われた。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))この事業は国費・紀元2600年記念奉祝会費により賄われた。
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