2018/06/27

ソクラテス(13) 「本質」の探究


ソクラテスの「本質の求め」
 ところでここには「人間の優れ」や「善・正しさ・麗しさ」を社会によって規定されているようなレベルのものではなく「本質そのもの」として捕らえる思考がありました。プロタゴラスの場合、「人間の優れ」も「善も正しさ」も社会によって決定されているものでした。したがって、そこでは「幸福の内容」まで決められてきます。社会の定めている「社会的立身出世」がその答えとなります。ですから「知者=ソフォス」という立場を示すことができます。

 しかしソクラテスの立場は、そうではないのです。例えば、正しいという行為も、具体的には様々の姿をとっており、しばしば矛盾をし、なにが「本当には正しいのか、正しくないのかわからない」というのが現実だという認識があります。これはプロタゴラスもそうでしたが、彼はここで「社会の習慣」を取りあえず善・正と認めようという立場を取りました。

 しかし、ソクラテスは徹底して「分からないものは分からない」とする一方で、その分からないものへと「探求の道を進めて行くべきだ」としたのです。このプロタゴラスとソクラテスの分岐点は、プロタゴラスが結局「正しさ」というものを「具体的な場面」でしか考えられなかったのに対して、ソクラテスは「正しさ」というものを「本質的」に考えられることができた点にある、と言えるでしょう。

 「本質的に」とは、一つ一つの具体的な異なった在り方をしているものに共通している「本来的在り方・性質」のようなもので、例えば「人間の本質」というのは個々の異なった人間達に共通していて、その異なっている人達を全員「人間」と呼ぶことができるようにさせている「本来的在り方・性質」のことですが、こういった視点で考える時「本質的」な考え方と言われるわけです。ソクラテスは、個々の具体的で異なった正しい行為に共通していて、それらが異なっているにもかかわらず皆「正しい」と呼ぶことができるようにさせている「正しさそのもの」「正しさの本来的在り方」みたいなもので考えている、ということです。人間についても人間を具体的にとらえるのではなく、全ての人間に共通した「本質的在り方」で捕らえるようになります。

 いってみれば、ここに「ソクラテスの独自性と歴史的意味」とがあるのです。実際のところ「人生への問い」そのものは太古の昔から、人間がいた限りにおいてあったものだと言えます。しかし、それはこの現実の場面から離れることはなく、その限り一つの「限定」のもとでの探求でしかなく、それは先に示したようにソフィストの場面で明確にされてきました。この場面では「人の優れ」や「善・正しさ・麗しさ」は「社会によって決定されている」ので、その社会の価値観に合わせて「どのように」実現させるか、だけが問題になってくるに過ぎません。

もちろん、そこには人間の欲望、情念、また遇運などもありうまくいかないわけで、そこにドラマが生じてホメロスやギリシャ悲劇の物語が書かれることになったのですが、基本的に「ある特定の社会の中の人間」だけしか考えられていないのです。したがって、ここには「普遍性」というものがありません。つまり人間を「本質的」に問題にするという意識はなかったからです。しかし、こんな問題意識は、現代でもなかなか難しいと言えます。こういった問題意識がポイントとなるのです。ソクラテスは「史上初めてこうした本質という観念に気がついて、それを求めた人」となるのであって、その意味で「哲学の始祖」と呼ばれるのでした。

知者の探求
 こうしてソクラテスは「人間の優れについての知の探求」へと入っていきます。そして世に賢者の評判のある人物を歴訪していくことになったといいます。

始めは政治的なリーダー達、ついで文化的リーダーとしての詩人達、そして最後に技術者を訪ね、結論として

政治的リーダーは何も知らない
詩人は立派なことを書いてはいるけれど、その書いていることについて何も知らない
技術者は、その当人の技術についてはよく知っているけれど、しかしそのゆえをもって肝心のこと(人間の優れ)まで知っていると錯誤してしまっている

という結論に達したと告白します。

 ここでの肝心なことというのが、先にいっておいた「人間としての優れ」ないし「善・正しさ・麗しさ」ということになるでしょう。しかし、本当に彼等はそれについて「無知蒙昧」な人達だったのでしょうか。だとすると彼等をリーダーとして認めていたアテナイ市民も、馬鹿ばっかりということになりそうです。そんなことはないでしょう。彼等も一流の人士だった筈です、ただし、それは「プロタゴラス的な場面で」であって、当時認められていた「社会の価値観において優れた人達」だったのです。

 しかし、これがソクラテスの眼からすると「駄目」ということになるのは、プロタゴラス自身が批判されたのと同じ理由においてです。彼等は「アテナイ社会で認められている人間としての優れ」を信じ、「善・正しさ・麗しさ」を前提していたのでしょう。

一方、ソクラテスは「本質的」に考えようとしていますから、彼等の態度は「一つの価値観を盲信している」連中ということになってしまうのです。つまりソクラテスは「人間の優れ」を社会が認めている人間の優れ、すなわち「立身出世」と言った方が早いでしょうが、そうしたレベルでは考えていないということです。ソクラテスは人間も本質的に考え、そのレベルでの「優れ」を考えていますので、それを忘れ、ただ立身出世を考えて偉くなった人達は批判の対象になってしまうのは当然でした。

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