出典 http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
「哲学」という言葉を始めて意味ある術語として使用したのは「ソクラテス」となります。
前回見た「自然哲学者」は、後代のアリストテレスがソクラテス以前を振り返って「哲学者の仲間」に入れたものです。それは哲学が「自然」をも問題にするようになってからのことでした。しかし、ソクラテスは「人間」に関心がありました。
「人間の在り方、人間の生き方」が、ソクラテスの主要な問題でした。人が「よく生きよう」と思った時、そしてそこにかかわる問題をしっかり見極めたいと思った時、一番根本になるのがソクラテスです。なぜなら「ソクラテスこそが、そうした問題を史上始めて意識的・意図的に、そして方法的に問うた人」だからです。
ここが原点なのです。
ですからこれまでも、そして今でも多くの人々が「人間や人生の問題で何か問題を感じると」必ずソクラテスに立ち返って行くのです。ソクラテスがすべての人々に勝って特別なのは、そうした意味があるからなのです。
当時のアテナイの状況
ところで、当時ソクラテスが生きていたギリシャのアテナイは、世界史上近代以前にはギリシャにしか見ることのできない非常に特殊な社会形態、すなわち「民主制の社会」でした。
ここで最も特徴絵的であったことは、ここでは「市民全員が自由に考える」ということが可能な社会であったということです。それが、ソクラテスを生み出すことになるのです。専制君主制の社会では、一般市民すべて奴隷なみの扱いでしたから「自由」はありません。ですから「自由に考える」などということも、できませんでした。あるいは、中世封建制の時代でもそうです。
社会的に封建制で貴族が支配しており、一般庶民は「自由にものを考える」なんて夢にも考えられませんでした。もっとも封建制では、貴族・僧侶たち上流階級も似たり寄ったりで、西洋の場合なら「キリスト教に反対の考え」など言おうものなら「異端裁判」で火あぶりにされてしまいました。ですから、西洋中世には「キリスト教神学以外の学問など存在しなかった」のです。
古代ギリシャの民主主義では、そうしたタブーがなかったので「何事についても自由にものを考える」ということができたのです。そのため、この時代に「哲学」だけではなく「詩・文学」「悲・喜劇「歴史・地誌」「政治・経済・法学」「医学」「天文」「生物」「数学」などなどさまざまの分野で「学問の祖」といわれる人たちが排出したのです。
彼らは、みんな「一般庶民」でしたが、ギリシャ以外での学者はことごとく「支配階級・上流階級」に属する人であり、その限りでの学問でしかありませんでした。従って「古代ギリシャが再生された」近代ヨーロッパでは、再び一般市民たちによる学問が花開いていったのでした。
ところで、当時ソクラテスが生きていたギリシャのアテネは非常に特殊な社会形態、すなわち「民主制の社会」でした。この民主制で一番ものをいうのは何といっても「弁論の術」でした。何せ「直接民主制」で皆が「民会」に出席し、演説し、そして拍手喝さいをうけた者が勝ちをおさめます。
裁判も同様です。裁判人は町の人々のなかから、クジで選ばれました。遊び人だろうが、ヨボヨボ爺さんであろうが関係ありません。検事も弁護士もいませんので、自分で弁論しなければなりません。ここでも、うまく相手をやっつけた方が勝ちです。相手をやり込めるか、裁判官の気にいるような弁論、おべっかを使うとか、カッコイイしぐさで拍手喝さいを得るかすればいいのです。こうして、黒だろうが白だろうが関係なくなります。
こうした社会で活躍したのが「ソフィスト」と呼ばれる人々でした。ソフィストというのは文字通りには「知者」という意味で、要するに「教師」と考えてよく、彼等は「若者の教育」ということを看板にしていました。その教育内容は「他人を説得する術、言い負かす術」であり、要するに「弁論術」を教えてお金をもうけていたのです。
ただし、そのためには「社会科学的な知識とか、さまざまの知識」も要しますので、ただの「おしゃべりの術」ではありません。しかし、その教える内容が「真実」を求めるということではなく「相手を説得する」「そう見せかける」「黒でも白と言いくるめる」という所までいってしまいますので(現代の政治家の弁論も似たようなものですから、そうしたものとイメージしておけば良いです。ですから「ソフィスト」というのは現代風に言えば「政治塾の教師」といったイメージとなります)、これはソクラテスにとって大問題でした。なぜなら、それでは「正・善・美などについて真実などない」と言っているのと同じでしたから。
「プロタゴラス」は、そのうちの一人で「万物の尺度は人間である」という言葉で有名です。もともとの意味は「国政、社会常識、慣習」は社会ごとに異なっているというような意味で、彼は多くの都市国家(ポリス)を尋ね歩いて社会を観察した結果、そういう結論を出したようでした。確かに、これは今日の社会にも当てはまります。しかし、これはつきつめていきますと「正・不正、善・悪、美・醜」も「社会ごとに、いや人ごとに異なる」ということになってきます。
これも確かにそう言えそうです。しかし、そうなりますと、ある人に「正しい」と思われたならば、その人にとっては「それが正」ということになり、それは人ごとに異なり、争いになってしまいます。
で、結局、一番強い人の言うことがまかり通る、ということになってしまいます。社会の在り方は、何だかんだいってもこういう印象がぬぐいきれません。プロタゴラスは、こういった在り方をズバッと核心をついて言っているので重要なのですが、こうなりますと彼の立場というのは、真実はあるのかもしれないし無いかもしれない、いずれにしろ人間には知ることができないし「社会の状況に合わせて、とりあえずあれこれ判断するしかない」といったような立場になってしまいます。
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