さて、今から二千五百年ほど昔の、この西施の物語はどの程度史実に基づいているのでしょうか?
中国の歴史書『国語』『左伝』『史記』には、この西施の名は見当たりません。『史記』には、越王が呉王に美女や宝物を贈ったという記述があるだけです。
ところが、西施が生きた時代に近い時期の『墨子』『荘子』『孟子』などには、その名前が出てくるのです。
たとえば『墨子』には「西施之沈、其美也」とあります。これは他の三人の実在の人物と並べて書かれている部分で、「西施が沈められたのは、その美しさのせいである」という意味です。
ここからは墨子が生きた紀元前4~5世紀に、すでに西施という美女が知られていたこと、川などに沈んで亡くなったらしいことがわかります。
また上にあげた「東施効顰」の故事は『荘子』に出ています。『孟子』にも、美女のたとえとして西施の名があります。
では、なぜ『史記』には呉越の話が出てきても、西施の名前は出てこないのでしょうか。
中国の歴史家は、西施のように女性が外交の道具として使われるのは当時普通のことで、取り立てて名前を出すような存在ではなかったからだろうと言います。
確かに「ハニートラップ」という言葉が存在するように、こうした手段はいくつかの国で今も使われていると時々、暴露されています。この役割を果たす女性は美女が多いのでしょうが、彼女たちの名前が歴史に残るということは、まずありません。
歴史家が彼女の名前に触れなかったとしても、上記のように様々な本で彼女の名が取り上げられているのは、当時から彼女が民間に広く知られていたからでしょう。
では、なぜよくあった話の中で、彼女だけが有名になったのでしょうか。
ハッピーエンドの最期と悲劇的な最期
西施の名前が民衆に広く知られ、その物語が愛されたのは、その類まれなる美貌とともに悲劇的な最期が関係しているのかもしれません。
『墨子』に「西施之沈、其美也」と書かれたのは紀元前4~5世紀、ハッピーエンド説が出てくるのは後代です。
西施が生きた時代、民衆はその最期まで知って彼女を憐れみ、それが多くの伝説を生んでいったのではないか、とも言われています。
では西施は、どのようにして亡くなったのでしょうか?
一説では呉王が亡くなる前に、西施を皮衣に包んで長江に投げ捨てたと言われます。また別の説では、越王・勾践が越に戻ってきた西施を同じく長江に沈めたと言います。さらに、また別の説では、越王夫人が西施の美貌に嫉妬し、自分の夫もまた呉王と同じようになるのではないかと邪推し、これを長江に沈めたとも言います。
いずれにしても、何者かによって西施は「鸱夷子皮」という皮で作られた袋に入れられ、生きたまま長江に捨てられたというのです。
これが史実だとしたら、なんとまあ無残な最期。国のために犠牲になって貢物として他国に送られ、用済みとなれば川に沈められてしまう。
この話を伝え聞いた民衆は、結末を西施が幸せになるものとせずにはいられなかった、としたならば、やがて西施伝説がハッピーエンドになっていったのもわかります。民衆が西施の幸せを望んだというところに、この話の美しさを感じます。
范蠡と西施
さて、ではそのハッピーエンドの結末とはどういうものかというと、越王の優れた参謀・范蠡が関わってきます。范蠡は、上で書いたように最初に西施を見出した人です。その時、范蠡は50代、西施は10代でした。昆劇『浣紗記』では、この二人は最初から魅かれ合い、結婚の約束を交わし、その時この紗という布を「信物」、愛の誓いの品としました。
それから十年の月日が過ぎ、西施が戻ってくると范蠡は彼女を約束通り妻として迎えます。その場面は、二人の乗る舟が五湖(太湖)に浮かぶ情景とともに語られます。
物語としては感動的なのですが、史実としてこの関係は二人の年齢差から言って、やや不自然ではあります。
ただ『史記』には、范蠡のその後が書かれていて、范蠡は呉滅亡後、猜疑深い越王・勾践に命を奪われることを恐れて逃げ出し、名前を「鸱夷子」に変えて太湖に船を浮かべ斉に渡ったとあります。「鸱夷子」というのは、西施を包んで捨てたとされる皮袋のことです。
なぜ范蠡は「鸱夷子」という名前に変えたのでしょう。ある学者は、このことから范蠡はやはり西施が好きだった、彼女が忘れられなかったと解釈しています。
もしこれが史実だとしたら、これも良い話です。自分が見出した美しい少女を貢物としてその人生を狂わせ、目的達成ののちには邪魔者として命を奪われてしまった。老境に入っていた范蠡が、この少女を自責の念とともに忘れられなかったとしても不思議ではありません。
西施をめぐる言葉
西施が出てくる成語には、もう一つ「情人眼里出西施」(恋人の目には、相手の姿が西施のように美しく見える)というのがあります。中国では、この成語は今もよく使われています。
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