2018/06/08

神武天皇陵・霊廟

陵・霊廟

陵(みささぎ)の名は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」に治定されている(北緯342951秒 東経1354716.5秒)。埋蔵文化財包蔵地とはされていない。宮内庁上の形式は円丘。

 

記紀によると畝傍山の北方、白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高市社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたと見られる。延喜式の第21巻の『諸陵式』によると、神武天皇陵は平安初期には東西1町・南2町の広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵所在も分からなくなっていた。

 

江戸時代初期より神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃に、幕府も天皇陵を立派にすることで幕府権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが畝傍山から東北へ約700 mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳であった(現在は、第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし畝傍山からいかにも遠く、山上ではなく平地にあるため、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」という場所にある小さな塚(現・神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。

 

文久の修陵では、丸山説を主張する北浦定政と神武田説を支持する谷森善臣との対決があり、北浦定政の『神武天皇御陵考』、谷森善臣『神武天皇御陵考』が山陵御用掛に提出され、戸田忠至から孝明天皇に提出され、文久3215日に朝廷より神武天皇陵は神武田に治定すると結論された。

 

文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決定され、徳川幕府が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。この時、山陵奉行として天皇陵修復の任に当たったのは宇都宮藩家老の戸田忠至、神武天皇陵治定に大きな役割を果たしたのは、戸田に従事した三条西家の侍臣の谷森善臣であると言われている。

 

文久三年二月二十四日には、権中納言徳大寺実則を勅使として発遣し山陵修復の着手を奉告し、孝明天皇自身も御所の東庭に下り立ち「四方拝」の作法に準じて神武天皇山陵を御拝した。同年の813日には孝明天皇自ら神武天皇陵への行幸が布告されたが、八月十八日の政変により中止となった。が、修復が完成した1128日には勅使柳原光愛を神武天皇山陵に派遣し、年末128日には御所東庭に下り立ち孝明天皇自ら神武天皇陵を拝し祈りを捧げた(「孝明天皇紀」)。

 

このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年に神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂基壇であったという説もある。

 

確証に乏しい陵墓選定ではあったが、明治時代以降には文字通り神格化が進んだ。1916年(大正6年)には、畝傍山中腹にあった洞村(208戸)が天皇陵を見下ろしているとして集団移転させられた出来事もあった(洞村移転問題)。

 

現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、畝傍山より東北へ300 m離れており、東西500 m・南北約400 mの広大な領域を占めている。毎年43日には宮中と複数の神社にて神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。皇居では皇霊殿(宮中三殿の1つ)において、他の歴代天皇・皇族と共に神武天皇の霊が祀られ、神武天皇祭当日には天皇自らその祭りを執り行っている。

 

初代天皇としての視点

後陽成天皇は「神武天皇より百数代の末孫」と自認し、そのことを明記した。その奥書を国立歴史民俗博物館の小倉慈司が近年発見し、近代以前の天皇にも神武天皇を初代天皇と見なしていた意識があったという事実が明らかとなった。

 

光格天皇も「百二十代」(石清水、賀茂社再興を願う「御趣意書」)や、「神武百二十世兼仁合掌三礼」(「光格天皇宸翰南無阿弥陀仏」奥書、宮内庁蔵)という署名を残している。

 

孝明天皇は異国船襲来という国体の危機の中にあって、幕府に命じて神武天皇陵を整備させ神武天皇祭を制定した。

 

明治天皇は神武天皇祭を継承し、明治10年(1877年)の紀元節(211日)には神武天皇陵を参拝した。儀仗兵が整列する中で参拝し、御告文を奏したという。

 

明治42年(1909年)に制定された登極令により、即位した新天皇は伊勢神宮、前4代の天皇陵に加え、神武天皇陵を参拝すると規定された。平成と令和の即位関連儀式も旧登極令の規定に準じて行われ、明仁天皇と徳仁天皇は即位礼及び大嘗祭後に神武天皇陵を参拝している。

 

明仁天皇は、神武天皇の崩御したとされる年から2600年目にあたる平成28年(2016年)には神武天皇陵を自ら訪れ「神武天皇二千六百年式年祭」を執り行い、橿原神宮も参拝した。宮中祭祀の式年祭において、天皇が自ら陵所を訪れて祭祀を行うのは、神武天皇と先帝(先代の天皇)の式年祭だけである。

 

このほか、現代の皇族は神武天皇陵を折に触れて参拝している。

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