2018/06/20

四国分立時代


 アッシリア滅亡後、オリエントには四つの国ができます。これを四国分立時代(前612~前525)という。

 まずメソポタミアからシリアにかけての、いわゆる「肥沃な三日月地帯」を中心に建国したのが新バビロニア王国カルデア王国ともいいます。バビロニアの南部に住んでいたカルデア人の建国です。都はバビロン。

 この国の王は、ネブカドネザル2世を覚える。前回もでました。ユダ王国を滅ぼし、バビロン捕囚をおこなった王です。

 これは、アッシリアの政策を受け継いでいるわけです。アッシリアも、イスラエル王国を滅ぼしたときに強制移住をさせていますから、ネブカドネザル2世の時だけが何故バビロン捕囚として、ユダヤ教成立に大影響を与えたか。不思議に思いませんか。大学で歴史を専攻する人は、こういうことを自分で調べて考えるんですよ。

 小アジアに建国したのがリディア王国。この国は最古の鋳造貨幣を造った点で重要。ギリシア方面とシリア、メソポタミアを結ぶ交易路にあったことと関連があるのでしょう。かつて、ほぼ同じ場所にあったヒッタイトで最古の製鉄がおこなわれていることを考えると、この地域は何か特殊な金属加工についての伝統があったのかもしれない。

 イラン高原を中心にできたのが、メディア王国

エジプトは、独立を回復してサイス朝ができます。

アケメネス朝ペルシア
 四国すべてを統一したのが、アケメネス朝ペルシア。小アジアからインダス川に至る大帝国を建設します。アケメネスというのは、王家の名前です。あとにササン朝ペルシアという国もできますので、これと区別するため試験では「アケメネス朝」と必ずつけてください。

 ペルシア人はインド=ヨーロッパ語族で、同じ民族系統に属するメディアに服属してイラン高原南部に住んでいました。

 前550年、メディアの政権を奪い、続いてリディア、新バビロニア、エジプトを征服した。その後、いったん王位をめぐって内乱状態になるのですが、この内乱を鎮めて統一を回復したのがダレイオス1世です。彼は自分の再統一の功績を記念碑に残しました。これが以前お話しした、ベヒストゥーン碑文です。彼の時代が、アケメネス朝の絶頂期ですね。

 彼は、帝国の支配制度を整備します。まず全国を20の州に分けて、総督を派遣します。この総督をサトラップという。さらに、監察官がいてサトラップを監督、監視する。これを「王の目、王の耳」といいました。「王の耳」は密偵、隠密で、サトラップが不穏な動向を見せると王に報告します。また、駅伝制度を整備します。これが「王の道」。こういうのは覚えやすくてよいね。

 アケメネス朝には都がいくつかあるのですが、一番代表的なものがスサ。それから、ダレイオス1世が建設したのがペルセポリスです。ペルセポリスの遺跡の写真がありますね。今は、廃墟になっている。当時は壮麗な都だったらしい。なにしろ、この都はダレイオス1世が儀式用に建設したものなのですよ。アケメネス朝は広大な領土を支配しているから、方々から他民族の使節団や、朝貢使節が来るんですよ。それを謁見するために造ったんだね。だから他民族の度肝を抜いて、アケメネス朝の威容を見せつけてやろうという意図があったと思いますよ。残された壁のレリーフは、ダレイオス1世が外国の朝貢使節を謁見しているところです。

 ペルセポリスをこんな廃墟にしてしまったのが、かの有名なアレクサンドロス大王です。ギリシア人を率いて攻め込んできたマケドニア王アレクサンドロスが、ここを占領した時に火を放って燃やしてしまったのです。

 ペルシアの他民族支配のやり方は、わりあい寛容だったようです。アッシリア帝国が強圧的な支配で、あっという間に滅んでしまった経験に学んだのでしょう。それにペルシア人の成年男子の数は10万人程度だったらしいですから、これがすべて戦士としても広大な領土を力だけで支配しつづけるには少なすぎる、そんな事情もあったのでしょう。

 たとえば、新バビロニアを滅ぼしバビロンに入城した際には、バビロン捕囚のヘブライ人たちに帰国を許しています。その後も、彼らが神殿を建設してユダヤ教を信仰していくことに対して、とりたてて干渉をしていないようです。

 要するに、支配下の民族がペルシアに対して税を納め、戦時には軍役に服せば、あとは何をしてもよかった。

 徐々に拡大してきたオリエントの交易圏をすっぽり包む形で、この帝国は成立します。大統一国家の誕生で、アラム人などは商売がしやすくなったでしょうね。ちなみにペルシア人の言語はペルシア語なんですが、帝国支配の公用語としてはアラム語が使われています。

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