2018/06/03

アケメネス朝


アケメネス朝(古代ペルシア語: 𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 Haxāmaniš ハカーマニシュ、古代ギリシア語: χαιμένης アカイメネース)は、古代オリエントに存在した王朝・帝国・遊牧国家。

名称
アケメネス朝の名称は、この家祖であるアケメネスに由来する。海外の文献では、古代ペルシア語の発音に従ったハカーマニシュ朝か、古典ギリシャ語の発音に従ったアカイメネス朝のどちらかを用いている。

この王朝の君主は称号として大王、諸王の王(xšāyaθiya vazraka, xšāyaθiya xšāyaθiyānām)を称した。単にペルシア王国、ペルシャ王国、またはペルシア帝国、ペルシャ帝国といった場合は、この王朝か、3世紀に興ったサーサーン朝を指すことが多い。

歴史
 紀元前7世紀後半、ペルシア人の長でハカーマニシュの息子テイスペス(チャイシュピ)は、アッシリアに圧倒され衰退しつつあったエラム王国の都市アンシャンを征服した。テイスペスの子孫はアンシャンを支配した一族と、ペルシアに残った一族の2つの系統に分岐した。アッシリアの衰退と共にメディア王アステュアゲス(アルシュティ・ワイガ?)は、バビロニアを除くアッシリア北部の領土をすべて征服した。この時代のペルシアは、メディアに服属していた。

紀元前550年、アステュアゲスの孫(アステュアゲスの娘マンダネの子)で、メディア人とペルシア人の混血であるアンシャン王キュロス2世(クル)は反乱を起こし、メディアの将軍ハルパゴスの助けを得てメディアを滅ぼした。イラン高原を掌握したキュロスは、さらに小アジアのリュディア、エラム、メソポタミアの新バビロニアを滅ぼした。

ヘロドトスの『歴史』によれば、キュロスはカスピ海の東側に住むマッサゲタイ族との戦いで戦死したとされる。しかし後年、アルゲアス朝マケドニアのアレクサンドロス3世のペルシア遠征の時、キュロスがパサルガダエに埋葬されているのが確認され、その記録には遺体の外傷について一切触れられていないことから、ヘロドトスの記事は間違いである可能性もある。

紀元前525年、キュロスの息子カンビュセス2世(カンブジャ)は、エジプト(エジプト第26王朝)を併合して古代オリエント世界を統一したものの、エチオピアへの侵略には失敗した。カンビュセスは、弟のスメルディスを殺した。カンビュセスの死後の2年間はメディア人のマゴス、ガウマータが実権を握ったが、ダレイオスをはじめとするペルシア人貴族たちの謀議によって打倒された。

ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。寡頭政治は国を分裂させる危険を、民主政は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた君主による君主政を選択した。最初に選ばれた君主となった、総督ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)の息子ダレイオス1世(ダーラヤワウ)は版図を北西インドからマケドニア・トラキアに拡大し、領土を20州に分けて各州にサトラップ(総督、太守)を置いた。なお、このスメルディス(カンビュセスの弟本人ではなく、その偽者ガウマータ)の暗殺に始まる政変は、ダレイオスによる簒位の後に捏造された偽伝ではないかと疑う説もある。

ダレイオス1世と、その子クセルクセス1世(クシャヤールシャン)はギリシア征服を計画してペルシア戦争(前492-449年)を起こしたが、失敗した。紀元前490年にダレイオスが派遣した軍は、マラトンの戦いでアテナイ・プラタイア連合軍に敗れ、紀元前480年のクセルクセス自らが乗り出した遠征はサラミスの海戦、プラタイアの戦いなどでの敗北を受け、失敗した。その後、紀元前5世紀中頃まで、ペルシアはギリシア人の反撃に苦しんだが、クセルクセスの次の王アルタクセルクセス1世は、紀元前449年のカリアスの和約で講和した。

ギリシア人が羨んだ莫大な富、ダレイオスによる新都ペルセポリスでの大殿造営など、ペルシアは繁栄を謳歌し、ペロポネソス戦争(前431-404年)後、ペルシアはその富を用いてギリシア世界に干渉し、ギリシア人同士の戦いを煽ってその共倒れを狙うという対ギリシア政策を取った(前395年から前387年のコリントス戦争が、その典型である)。 その一方で、内政面では紀元前4世紀に続いた小アジアのサトラップの反乱(前372-362年)に悩まされていた。

404年、ダレイオス2世の死後、アルタクセルクセス2世と小キュロスの間で、皇位継承争いが起こった。ペロポネソス戦争の退役ギリシャ軍人を傭兵とした小キュロス軍が敗北して、アルタクセルクセス2世が王位に就いた。クセノポンは、ギリシャ敗残兵一万人の脱出紀行を『アナバシス』に残している。

宦官で大臣のバゴアスにより、アルタクセルクセス3世とアルセスが相次いで暗殺され、傍系のダレイオス3世が擁立された。ダレイオス3世の代にアレクサンドロス大王とのガウガメラの戦いに敗れて紀元前330年に滅んだ。ただし、アレクサンドロスはダレイオス3世の息女(スタテイラ、パリュサティス)と結婚し、アケメネス朝の統治制度をほぼそのまま継承しようと試みていた。なお、アレクサンドロスもそうだったが、アケメネス朝の君主たちも古代エジプトを征服した後にファラオを任じていた。
出典 Wikipedia

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