2018/06/22

神武東征(諸説)

神話学の立場からは、 三品彰英により 高句麗の建国神話との類似が指摘されている。

 

出発地についての諸説

南九州説

神武東征の伝承上の出発地は「日向」である。この「日向」をのちの日向国とすれば、その地は南九州である。

 

『日本書紀』では、磐余彦尊はまず菟狭(現在の大分県)に至り、そこより崗水門(現在の福岡県)を経て安芸国(現在の広島県)に移動している。すなわち、出発地(日向)→菟狭→崗水門と北方に移動したのであるから、日向は菟狭より南にあると考えられる。

 

北部九州説

神武東征の本来の出発地は北部九州であったとする。根拠は以下の通り。

出発地の記載は「日向国」ではなく「日向」である。『日本書紀』では、日向国の名の由来は景行天皇の言葉であるとされているので、のちの日向国の地名は神武東征の時点では「日向」ではなかったと考えることができる。仲哀紀には、日向を「膂宍の空国」、「鹿の角の如き実の無い国」と呼称するなど、日向が不毛の地であったことが窺え、古墳の築造も4世紀後半ないし5世紀に始まった事情もあり、後進地域であったことも神武出発の地とするには不自然である。

 

日向は固有名詞ではなく、太陽に向かう東向き、南向きの意か美称である。

南九州を出発すると、日向→宇佐→関門海峡→岡(洞海湾→遠賀川)→関門海峡→安芸と、流れの速い関門海峡を二度通ることになる。

 

「筑紫の日向」は「九州の日向國」ではなく「筑紫國の日向」(福岡県に「日向」の地名がある)と解釈すべきである。たとえば邪馬台国九州説の舞台の範囲でも、伊都国があった福岡県糸島市と奴国があった福岡市の間には日向峠(ひなたとうげ)があり、そこには二級河川の日向川(ひなたがわ)が流れている。福岡県朝倉市には日向石という地名があり、福岡県八女市の矢部川流域には日向神という地名がある。また糸島市周辺には、記紀とは異なる日向三代の神話があり、平原遺跡からは原田大六によって八咫鏡に比定される大型内行花文鏡が出土している。

 

『古事記』では、天孫降臨で日向の高千穂を「韓国(からくに・朝鮮半島南部の国家)に向かい笠沙の岬の反対側」としている。

 

熊野大迂回への疑問

『日本書紀』では、神武天皇による紀伊名草邑から熊野への大迂回が記される。

鳥越憲三郎は著書『大いなる邪馬台国』(講談社、1975年)において、古代の舟で熊野灘へ迂回したとは常識的に考えられず、この記事を後世の地名に影響されて脚色されたものと唱えた。丹敷の地名も万葉仮名では「ニフ」と読むべきで、丹敷戸畔のいた丹敷浦を丹生川の合流地域であるとしており、そこには丹生都比売神社(ニフツヒメ)があることを指摘している。

このことから、古くは紀ノ川上流を熊野と称していたと見て、それが後の紀伊半島全体を熊野と称するようになったこととしている。また、紀ノ川を遡上すると容易く大和南部に達することや、紀ノ川が古代の交通路であったことに注目して、神武行軍の紀ノ川遡上説を主張している。

 

小説家の邦光史郎は、著書『消えた銅鐸族~ここまで明らかになった古代史の謎~』(光文社、1986年)で、古くから熊野灘が航海の難所であり、大阪湾から熊野灘を乗り切って東へ行く航路が開けたのが元禄になってからであることや、熊野山中から吉野への抜ける陸路も伯母峰峠が難所であることから、この迂回行動を東征経路で最も不合理な記述であると評価している。

 

東征否定説

西谷正は、北部九州が近畿を征服したとは考えにくいとする。主な理由として、近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早いとする。方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなど。しかし、実際には鉄鏃は魏志倭人伝の邪馬台国に存在したとされ、実際にも北九州から多数出土しているが、畿内では3世紀ごろの鉄鏃は殆ど出土していないことから、この説は根拠が乏しい。

 

邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は可能性が低い。しかし、神武東征が魏志倭人伝に見える邪馬台国の時代の出来事であるとは限らないし、肯定説の全てが国家規模での東遷ではないことに留意される。

 

原島礼二は、大和朝廷の南九州支配は推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年の隋の琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権をヤマト王権が主張する為に説話が形成されたとする。

 

水銀確保のための東征説

上垣外憲一は、近畿から四国にかけての水銀鉱脈を調べた松田壽男の『丹生の研究 歴史地理学から見た日本の水銀』(早稲田大学出版部)を参考に、神武東征が水銀朱といった資源が枯渇した一族が経済基盤を求めて、紀ノ川筋の水銀鉱山を押さえ宇陀の大和鉱山(現在操業停止)に侵入し、大和王権を3世紀後半に確立したものとする。また、崇神天皇の時期に伊勢が大和王権にとって重要になるのも伊勢水銀鉱山(丹生鉱山)ゆえとし、古墳初期において王とは水銀資源を掌握した存在と定義している。

0 件のコメント:

コメントを投稿