2018/06/24

沈魚美人・西施(1)(中国四大美女)

西施(せいし、生没年不詳)は、中国の女性。美人として知られ、王昭君・貂蝉・楊貴妃を合わせて中国古代四大美女と言われる。

本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の諸曁(現在の浙江省紹興市諸曁市)生まれだと言われている。

現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施という由来から西施と呼ばれるようになった。

越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は、谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。

呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。

また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。

中国四大美人の一人と呼ばれる一方で、俗説では絶世の美女である彼女達にも一点ずつ欠点があったともいわれており、それが西施の場合は大根足であったとされ、常に裾の長い衣が欠かせなかったといわれている。逆に四大美女としての画題となると、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて、魚達は泳ぐのを忘れてしまったという俗説から「沈魚美人」とあてられる。

顰に倣う
『荘子・天運』によれば、西施には胸が痛む持病があったという。ある日、その発作が起きた。彼女が胸元を押さえ、顰(眉間)にしわを寄せた姿はなんともなまめかしく、か弱い女性の美しさがにじみ出ていた。彼女が里から歩いて来るその様に、里の人たちは皆、目が釘付けになった。

ある里に、一人の醜い女がいた。この日、西施が胸元を押さえ、眉をひそめた様子にたくさんの人が釘付けになっているのを見た女は、西施の真似をして胸元を押さえ、眉を顰めて、村を行ったり来たりした。この醜い女が大げさに振る舞うと、ただでさえ醜い顔がもっと酷くなった。そのため、この女の奇怪な様を見ると里の人々はすぐに戸を閉め、貧乏人は妻や子を連れて遠くに逃げるといった具合であった。

このことが顰に倣う(ひそみにならう)、むやみに人の真似をするのは愚かなことという故事になった。これを「西施捧心」と四字熟語で表されている。日本では、先人に倣った行為にあたって、自らをへりくだる表現としても用いられる。

沈魚落雁(魚が沈む、雁が落ちる)
西施が川で洗濯する時に、川中の魚は西施の美しい姿を見て動けなくなったという。ちなみに落雁は王昭君。
出典 Wikipedia

中国四大美女
一般に西施、虞美人、卓文君、王昭君、趙飛燕、貂蝉、楊貴妃などの中から4人が選ばれる。

西施は「沈魚美人」と称される。落雁美人の王昭君、閉月美人の貂蝉、羞花美人の楊貴妃と並び、沈魚落雁閉月羞花とは、それぞれ絶世の美女を指す言葉を指す。

ちなみに沈魚美人のいわれは、彼女が川で洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったといわれる。また、中国では犬のシーズーは西施犬、フグは西施乳(美味だが毒がある。白子の事を指すとも言われる)という。

越が呉に送り込んだ最終兵器
西施(せいし)は、紀元前500年前後に実在した中国の女性。とんでもない美貌の持ち主だったそうです。その美貌は、呉への復讐に燃える越王・勾践の耳にも届き、西施は呉王夫差をその美貌で骨抜きにする任務を背負わされます。

宿命のライバル呉・越
越と呉は、半世紀近くにも渡る壮絶な戦いを繰り広げていました。ライバルが同じ場に出くわすことを「呉越同舟」という諺で残っているほど、後世にまで聞こえ高いライバル関係です。

紀元前496年、越王勾践は攻め込んできた呉の軍を奇策で破り、その戦いの時の流れ矢が原因で呉王闔閭は死去。憎しみを忘れないため、固い薪の上で寝るほど打倒越に燃える呉王夫差は、前494年の戦いで大いに越を打ち破ります。

越は呉に隷属する形となり、越王勾践は呉王夫差に前に跪き、ようやく帰国の許しを得て生き永らえます。(会稽の恥
越王勾践は、この屈辱を忘れないために、部屋に苦い肝を吊るし毎日それを舐めることで、呉への復讐を新たにしていました。(臥薪嘗胆

越王に召還され、密命を受ける
そのような西施の美人っぷりが、越の智者である范蠡(はんれい)や文種(ぶんしょう)の耳に届きます。

彼らは西施を勾践の妾にするのではなく、呉を滅ぼすために「兵器」として西施を使うことを思いつきます。すなわち、その美貌で呉王を骨抜きにし、内側から呉を解体してしまう、という策です。

早速、西施は越の後宮に呼ばれ、王に直々に勅令を受けます。当初は何のこっちゃ分からなかったかもしれませんが、彼女はその運命を受け入れるのです。家族や村に莫大な恩賞金でもあったのかもしれません。

すぐさま、普通の田舎娘から王の美姫になるためのトレーニングが開始。貴人としての作法、歌舞のたしなみ、そして夜のテクニック等々。たっぷり数ヶ月の訓練の後、いよいよ越王勾践の愛妾という設定で、呉王夫差のもとに渡ることに。

呉王・夫差のもとへ
越の范蠡は、首尾よく呉の宰相・伯嚭(はくひ)に賄賂を渡して、 西施を呉王夫差に紹介する段取りを整えていました。

大王様、この者は越王勾践の愛妾の西施という者にござります。
西施を見た夫差の目の色が変わります。宰相は続けます。
越王は自らの愛妾を大王様に捧げるほど、服従の意を示している所存です。
そうかそうか、とご機嫌の夫差。早速、西施を側に侍らせます。

特訓の結果もあり、西施は夫差のお気に入りの妾に。次第に夫差は政治をおろそかにし、西施と過ごす時間を増やしていきました。

 内部から呉を蝕む西施
西施は、あらかじめ教えられていた通り、呉の国力を削ぐために贅沢三昧を夫差に要求します。夫差は国庫の金をつぎ込んで、西施のために次々と庭園や離宮を作ります。越の意図に気づいた部下の伍子胥(ごししょ)が夫差を諌めても、聞く耳を持ちません。西施の毒は、広く確実に呉の国を蝕んでいきます。

西施のために造園された、館娃宮(かんあいきゅう)。春には花が咲き乱れ、夏は冷たい井戸水で水浴びをし、秋には紅葉が目を楽しませ、冬は洞で暖を取る。西施が訪れる度に、大規模な響宴や歌舞が催されます。西施はキャッキャと喜び、夫差も満足げな笑顔を浮かべる。

内部から弱体化する呉
西施に夢中になり、次第に大臣たちの意見を聞かなくなった夫差。次第に、越と通じている宰相の伯嚭(はくひ)の意見のみを聞くようになります。

伯嚭(はくひ)は、心ある臣下を左遷させたり、越以外の国に大規模な軍勢を送ったりなど、積極的に呉の弱体化に加担。

越の侵攻、呉の崩壊
越はこの間20年、辛抱強く国力を蓄え、乾坤一擲のチャンスを待っていました。勾践の越軍は、呉の領土に怒濤のごとくなだれ込みます。

473年、夫差は宮殿のあった姑蘇城で捕われて降伏。自殺して果て、ここに呉は滅びます。

呉が越に滅ぼされたのは、もちろん西施だけの力ではなく、当然様々な要員や条件があってのことです。ただ、西施の存在はきっと、呉がさらに強力にのし上がっていくための財政やリソースのポリシーを狂わせてしまったのだろうと思います。

財政の健全化がうまくいかなくなってきて、官僚や軍の人材の硬直が発生し、組織としての柔軟性を欠いたところに、越の軍隊の侵入があり対処しきれずに滅びてしまった。

そもそも、宰相・伯嚭(はくひ)が越に通じて賄賂を受け取っている時点で、組織として綻びてますよね。

さてその後、西施がどうなったかの資料は存在せず、呉の滅亡の際にどさくさで殺されたとも、役目を終えたことを悟り自ら命を断ったともいいます。

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