2018/06/17

ソクラテス(12) 「良く生きる」

出典 http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 しかし、それはソクラテスにとっては大問題でした。

なぜなら、「正しいことの基準などない」ということになりますと、つきつめれば「人は勝手に好きなようにして生きていて構わない」ということになってしまいます。

法律といったって、これもようするに「人」がつくったものなのだから、もし気に食わなければ「強くなって」それをいいように運用したり変更したりして構わない、ということになってきます。

実際、プロタゴラスが見抜いたように、現代に至るまで社会はそんな風にも見えるのですが、人間ってそんな風に生きていいのだろうか、とソクラテスは思ったのでした。
 
ソクラテスはプロタゴラスのような立場に対して、確かに一見そうは見えるけどそれは違う、「正しい」といわれる在り方には「一定の在り方」があるのだ、と考えました。しかし、その「一定のもの」が人には「よく見えないものだし曖昧」なので、バラバラに見えたり変動したり恣意的にみえたりするのだ、と考えたのです。したがって、その真実がより多く見えてくれば正しさというのもよりしっかりした姿を示すだろう、ということで「その真実」を求めていったのです。

 もちろんその真実を「本当に知る」などということは、神でなければできないとソクラテスはいいます。しかしソクラテスは、できないにしても「近づく」ことは出来ると考えました。それは、動物はそんなことを自覚もしないし追求もできないという意味で「無知」であるけれど、人間は「自覚」し「追求する」という「知と能力」をもっているわけで、この限り「無知」ではなく、また追求とは「近づく」という作業であり「近づける」ということを意味している筈だと考えたのです。

 人間は、こんな「知と無知の中間」にあるからこそ「知を愛する」という意味の「愛知=哲学」が可能だし、また「無知」であることを放置していては動物と同じで「人間とはいえない」と考えたのでした。ソクラテスが自らのあり方を「愛知者=哲学者」と呼んだのは、こんな意味合いでだったのです。

ソクラテスの課題「幸せ」とは
 ソクラテスの問題とは「良く生きたい」ということでした。ところで、我々にとっても最も望ましいことは、その考える具体的内容はさまざまであっても、一般的な言い方では「幸せ」と言い換えられます。

一方、その「幸せ」というのは、普通には「財産」とか「地位」とか「名誉」とか考えられています。しかしそれらは、必ずしも本当の意味で幸せを保証するかとなるとそうでもない、ということに多くの人が気付いてきます。確かに、大臣たちは「権力」を持っていますし、大会社の社長さんなど「金に不自由なく好き勝手に贅沢」をしており、多くの人が「うらやましがり」ます。しかし、「本当に幸せか」というとそうでもなく、「金も地位もないけれど、家族と一緒に楽しそうに、誠実に生きている」人を見ると「幸せな人」と評価してきます。財産や地位は、そのものとして「幸せ」とはならないのです。

 そして次ぎに「健康」とか「家族」とか「友人」とか「恋人」などと考えていくわけですが、これらも要するに「外的な要素」であり「付け加わってきたり無くなってしまう」ものですから、どうも良くわからなくなってきてしまうわけです。つまり「欲求は際限がなくなり」そして「付け加わってきたり、なくなったりするのが当たり前」となり、すると「どうだったら幸せ」なのかわからなくなるという筋道だからです。

「人としての優れ(アレテー)」
 そこでソクラテスは考えるわけですが、物事というのは何であれそれがそうであるということが十分に発揮されたところに「そのもののよさ」があると考えました。

譬えれば、ナイフは「よく切れる」ことで「よいナイフ」といわれます。同様、人間に置き換えると、たとえば「ピアニスト」は、素晴らしい演奏をすることにおいて「よいピアニスト」であり、そこに「ピアニストとしての幸せ」があります。だとすると、「人間」も最も「人間らしくある」ことにおいて「最もよく」したがってそこに「人間としての幸せ」もあるのではないかと考えました。

そして財産も地位も要するに、それらはそれ自体としての価値を持つわけではなく「それを用いる人」によって良くも悪くも働くと考えました。したがって問題は「人間性」にある、となったわけです。ですから、「よく生きる」ということは結局「人間としての優れ(アレテーといいます)」つまり具体的には「善・正しさ・麗しさ」というところにあるとしたのです。

 人はそうしたものを獲得しなければなりません。しかし、こんなもの誰も本当の所は分からず、神様だけしか知らないようなものです。でも人間はそういう知を得たいと思います。神様のような「知者(ソフォス)」にはなれないけれど、しかし、そうした「知を愛する人(フイロソフォス)」にはなれます。こういった立場をソクラテスは示してくるのです。「フィロソフォス」とは、本来こういう意味での「愛知者」を意味していたのです。

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