2007/07/29

浅草寺(1)

浅草は、東京都台東区の一地区。浅草一丁目から七丁目まで存在する。戦前は東京随一の繁華街として栄えた。関東大震災と戦災で壊滅的な被害を受けたが、そのたびに目覚ましい復興をとげてきた。高度経済成長期以降は山手線沿線の池袋、新宿、渋谷などの発展により、東京を代表する繁華街としての地位はこれらの地区に譲ったが、現在も江戸情緒を感じさせる観光地として賑わっている。

 

近隣には、調理器具等の飲食店関連の用品を取り扱う合羽橋道具街など、特殊な商店街なども存在する。

 

古くからの浅草地区のランドマークとして、浅草寺山門である雷門が知られる。明治後期には、第六区に建てられた十二階建ての凌雲閣が有名となり、浅草十二階と呼ばれランドマークとして認知されていたが、大正期の関東大震災で崩壊。昭和初期には西浅草に森下仁丹が広告塔を建設。仁丹塔の愛称で戦後も長らく親しまれたが、1986年に解体された。1990年代以降には、吾妻橋対岸の墨田区本所にあるアサヒビール本社ビルもランドマークとして認知されつつある。

 


歴史

「吾妻鏡」の1181年(養和元年)の条に浅草の名が見える。古くから浅草寺の門前町として栄えていた。また江戸湊や品川湊と並んで、武蔵国の代表的な港である浅草の港が、石浜(現在の台東区橋場)や今津(現在の台東区今戸町)にあったとされる。

 

江戸時代には仲見世が発展し、後の一大繁華街となるきっかけになった。1657年(明暦3年)の明暦の大火の後、新吉原遊郭が移転してきた事。1841年(天保12年)の天保の改革では遠山金四郎により、芝居小屋が浅草に移転してきた事による。

 

明治時代には、東京市15区の名前の一つに「浅草」が採用された。また浅草寺を中心とした地域を明治時代に公園化し、東京初の都市公園である浅草公園となった。浅草公園を6つの区に分けたことから、浅草公園六区ともよばれた。なおこの言い方は、その中で一番にぎやかだった地域である第六区のみを指す場合が多い。

 

明治時代に凌雲閣(通称十二階)などが建てられ、江戸以来の繁華街として新たに演芸場や芝居小屋等が建ち、東京庶民の歓楽街として知られるようになった。関東大震災以降の興行界は、松竹の進出が本格的となり戦前の昭和においては有楽町に進出した東宝と覇を争った。戦後は松竹歌劇団(SKD)の本拠地である国際劇場やロック座、フランス座などのストリップ興行で賑わった。

 

しかしながら、後背地に乏しかったこと、常連客を相手にし過ぎた挙句、新規顧客開拓を怠ったこと、山手線から離れていたことなどから、高度成長期には衰退が始まり、一時は見る影も無く寂れた。

 

その後、浅草寺を中心とした門前町エリアは、下町らしさを主とした外国人向け観光地として、ある程度活気を取り戻したものの、西浅草、吉原、山谷などの諸地区は東京でありながら過疎化に歯止めがかかっていない。

 

また、関東大震災後から第二次世界大戦前までに、東武線及び地下鉄銀座線が乗り入れた。

 

浅草寺

東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺院である。山号は金龍山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。もと天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。

 


『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の草創の由来は以下のとおりである。

 

推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。観音像は高さ18分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが公開されることのない秘仏のため、その実体は不明というほかない。

 


その後、大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し、観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。さらに平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらのことから浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。

 

中世〜近世

浅草寺の文献上の初見は、鎌倉時代の『吾妻鏡』である。同書によれば、治承5年(1181年)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。また、建久3年(1192年)、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290年)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。

 

天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は、観音霊場として多くの参詣者を集めた。

 

貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保13年(1842年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。

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