その他の堂宇等
駒形堂
寺の南方、隅田川に架かる駒形橋西詰の飛地境内にある小堂。本尊は馬頭観音立像(秘仏)。浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされ、かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、駒形堂に参詣してから観音堂へ向かったという。現在の堂は鉄筋コンクリート造、方三間、宝形造で、平成15年(2003年)に建て替えたものである。堂は元来は隅田川に向いて建てられていたが、現在の堂は江戸通り側を正面とし、川には背を向けた形になっている。
二尊仏
宝蔵門手前右手にある2体の露座の銅造仏像。「濡れ仏」と通称する。向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩像である。台座を含めた高さは約4.5メートル。貞享4年(1687年)の作で、台座の刻銘によれば、上野国館林(群馬県館林市)の高瀬善兵衛という人物が、かつて奉公した日本橋の米問屋成井家への報恩のために造立したものである。
久米平内堂
二尊仏の手前にある小祠。ここに祀られる久米平内(くめのへいない)は、講談等に登場する半ば伝説化された人物である。その伝記等は定かでないが、剣の道に優れ、多くの人の命を奪ったので(首切り役人だったともいう)、その罪滅ぼしのために、自らの像を仁王門の近くに埋めて、多くの人に踏みつけさせたという。「踏みつけ」が「文付け」(恋文)に通じることから、縁結びの神とみなされるに至った。
弁天山
宝蔵門の東方、広場の奥にある小山を「弁天山」といい、石段上に朱塗りの弁天堂、その右手に鐘楼が建つ。弁天堂は鉄筋コンクリート造で昭和58年(1983年)の再建。鐘楼は木造で、昭和25年の再建。この鐘楼に架かる梵鐘は江戸時代の人々に時を知らせた「時の鐘」の1つで、元禄5年(1692年)の銘がある。松尾芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」と関連して説明されることが多いが、この句は現存する鐘の鋳造の5年前の貞享4年(1687年)に詠まれたものである。弁天堂への石段の左側には、芭蕉の「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」の句碑がある。
影向堂(ようごうどう)
本堂の西側にある。鉄筋コンクリート造、寄棟造、錣葺き(しころぶき)屋根で、平成6年(1994年)の建立。堂内には本尊聖観音像のほか、十二支の守り本尊である8体の仏像を横一列に安置する。影向堂の周囲には六角堂、橋本薬師堂、石橋などがある。影向堂の左に建つ六角堂(東京都指定有形文化財)は室町時代の建立で、小規模ではあるが、境内最古の建物である。堂内には日限地蔵(ひぎりじぞう)を本尊として祀る。石橋(東京都指定有形文化財)は、かつて境内にあった東照宮(徳川家康を祀る)への参詣用に造られたもので、元和4年(1618年)、東照宮が勧請された際に建造された。東照宮自体は焼失後再建されていない。
淡島堂
影向堂のさらに西側に建つ。江戸時代、元禄年間に紀州(和歌山市)の淡島明神(淡嶋神社)を勧請したことから、この名がある。木造、入母屋造。平成7年(1995年)、境内地の再整備の際に旧影向堂を移して淡島堂としたものである。この堂は昭和30年(1955年)までは浅草寺の仮本堂であった。堂内には本尊阿弥陀如来坐像、向かって左に淡島神の本地仏とされる虚空蔵菩薩像を安置する。毎年2月8日に、この堂で針供養が行われることで知られる。
鎮護堂
本坊伝法院の鎮守で、伝法院通りを西方に向かって歩いた右手に入口がある。伝法院は非公開だが、敷地の南西にある鎮護堂のみは公開されており、ここから柵越しに伝法院の回遊式庭園が瞥見できる。ここに祀られる「鎮護大使者」とはタヌキである。明治時代の初期、境内には多くのタヌキが住み着き、寺では手を焼いていた。ある夜、当時の住職の夢にタヌキが現れ、「自分たちを保護してくれるならば、伝法院を火災から守ってやろう」と住職に告げたため、この堂を建てて鎮守とすることにしたという。切妻造の拝殿の奥に建つ本殿は、大正2年(1913年)の建立。
境内の銅像、碑等
ü 大谷米太郎夫妻像 - 本堂裏。宝蔵門を再建寄進した大谷米太郎夫妻の胸像。昭和42年(1967年)の造立。
ü 九代目市川團十郎「暫」の像
- 本堂裏の駐車場隣。当初、大正8年(1919年)に造立されたもので、彫刻家新海竹太郎の作であったが、第二次世界大戦時の金属供出で失われ、昭和61年(1986年)、十二代目市川團十郎の襲名を期に再建されたものである。
ü 松尾芭蕉句碑 - 弁天山石段の左方。寛政8年(1796年)建立。
ü 迷子知らせ石標 - 本堂前。江戸に数箇所あった迷子知らせ石標の1つで、安政7年(1860年)に建立されたが、現在立つ石標はは昭和32年(1957年)に復元されたもの。
ü 「鳩ポッポ」の歌碑 - 本堂前。東くめ作詞、滝廉太郎作曲で、明治33年(1900年)に発表された童謡「鳩ぽっぽ」の歌詞と楽譜を表した碑。昭和37年(1962年)の建立。なお、この曲は文部省唱歌の「鳩」とは別の曲である。
ü 映画弁士塚 - 淡島堂南側の「新奥山」と称する一画に立つ。無声映画時代に活躍した弁士を称えるために昭和33年(1958年)建立された。題字は鳩山一郎の書。
ü 喜劇人の碑 - 「新奥山」にある。昭和57年(1982年)建立。川田晴久を筆頭に、物故者となった日本の喜劇人の名が刻まれている。
ü 瓜生岩子像 - 「新奥山」にある。瓜生岩子(1829 - 1897)は、今の福島県喜多方市の出身。生涯を弱者、貧困者の救済、社会事業に捧げ、日本のナイチンゲールと称される人物である。銅像は明治34年(1901年)に造立されたが、第二次大戦時の金属供出で失われ、昭和30年(1955年)に再建されたもの。
ü 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』記念碑 - 浅草神社鳥居脇。平成17年(2005年)に秋本治の漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の単行本の発行部数が、1億3000万部を突破したことを記念するため建立された。同作品の主人公である「両さん」こと警察官両津勘吉は浅草育ちという設定になっており、両津の少年時代のエピソードを題材にした「浅草物語」の巻に浅草神社が登場した縁により建立されたものである。
この他、浅草神社境内には久保田万太郎句碑、川口松太郎句碑、河竹黙阿弥顕彰碑、市川猿翁(二代目市川猿之助)句碑、初代中村吉右衛門句碑などがある。
考古学上の遺跡としての浅草寺
古代から中世・近世(江戸時代)と長い歴史を有す浅草寺は、考古学上重要な歴史資料をその地下に包含した浅草寺遺跡でもある。戦災で焼失した五重塔再建に先立ち、昭和45年(1970年)には再建地点の発掘調査が行われ、学術的に貴重な成果が得られた。特にこの調査は、葛飾区葛西城跡の発掘調査や千代田区都立一橋高校内の発掘調査と並び、それまでの日本考古学では研究対象とされていなかった中世や近世(江戸時代)の遺跡調査の嚆矢となり、特に近世考古学の出発点となる学史上の記念碑的調査となった。その後も、台東区教育委員会による浅草寺境内及び周辺での発掘調査が地道に続けられ、従来の文献資料研究が描いてきた浅草寺及び浅草の歴史像の大幅な修正を迫る発見が相次いでいる。
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