日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。
無土器時代、先土器時代ともいう。
終期については青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では、1万6500年前と出たことによる。
日本列島での人類の足跡も、9〜8万年前(岩手県遠野市金取遺跡)に遡る。
この時代に属する遺跡は、列島全体で数千ヵ所と推定されている。
地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。
ヨーロッパの考古学時代区分でいえば、概ね後期旧石器時代に相当する。
●日本列島の形成
日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前である。
その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。
その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。
従来の学説では、氷河期に日本列島は大陸と陸続きになり、日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきたとされてきたが、近年の研究では氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡には海が残り、陸続きにならなかったことが分かってきた。
また舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が、関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言も新聞で報道されている。
しかし、この時期には船の遺物は発見されていないため、少数意見である。
一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より、黒曜石の採掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では、知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
また、4万年~3万年前には世界最古の磨製石器が製作されており、すでに日本では独自の文化が形成されていたことが窺える。
●動物相
日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)を通って、いろいろな動物が渡ってきたと考えられている。
それらの動物群を追って、旧石器人が渡ってきたともいわれている。
最終氷期に大陸と繋がった北海道だけは、マンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、それらの混合相となった。
ナウマン象は約35万年前に日本列島に現れ、約1万7000年前に絶滅している。
長野県野尻湖遺跡の約4万年前の地層から、ナウマン象の骨製品がまとまって発見されている。
●植生
更新世も、中頃を過ぎると寒冷な氷期と温暖な間氷期が約10万年単位で繰り返すようになり、植生の変化もそれに対応するように規則的な変化を繰り返すようになった。
氷期を約6万年前を境に前半と後半に分けると、前半は温帯性の針葉樹によって占められる針葉樹林の時代であり、後半は約5万年前と約2万年前の亜寒帯の針葉樹が繁栄する時期と、それ以外のコナラ属が繁栄する時代からなる。
そして、最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南部から中央高地にかけては亜寒帯性針葉樹林で、それより西側は温帯性針葉・広葉の混交林が広範囲に拡がっていった。
暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋側沿岸の一部と南西諸島に後退していた。
一方、姶良Tn火山灰 (AT) は、日本列島全体を覆うほどの姶良カルデラの巨大噴火によってもたらされ、九州から東北日本までの植生に大きな影響を与えた。
気候が寒冷化に向かう過程で噴火が起こり、針葉樹林化を速めた。
このことは、動物群や人間社会にも影響を及ぼした。
たとえば、それまでは全国均一的な石器文化を保持していたものが、地域的な特色のある石器文化圏、つまり西日本と東日本というような石器文化圏成立に影響した、との可能性を考えることができる。
日本列島において氷期から間氷期への急激な変化は、更新世から完新世への変化も急激であり、気候変化、海面変化、植生を含めた生態系の変化も急激であった。
後期旧石器時代はコナラ、クリ、クヌギを主体とした落葉広葉樹林が、西日本から東日本を覆うようになった。
●石器
日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。
しかし数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、岩手県の金取遺跡(9~8万年前)から中期旧石器が、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。
日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。
ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が岩宿(現・群馬県みどり市)で関東ローム層中から旧石器を発見した。
日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。
現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。
これらの遺跡の殆どが、約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。
後期旧石器時代が証明されると、さらに古い時代の発掘が試みられた。
1960年代から大分県丹生・早水台、栃木県星野遺跡、岩宿D地点などが調査され、前期旧石器存否論争が行われたが、多くの研究者の賛同を得られなかった。
これらの論争は「丹生論争」、「珪岩製前期旧石器論争」などとして知られている。
1970年代に入ると前期旧石器の探索は薄らぎ、層位編年研究や遺跡構造の解明へ傾斜していった。
●旧石器捏造事件
1980年代から、東北地方を中心に前期旧石器時代・中期旧石器時代が日本に存在したという証拠が、次々に「発見」された。
発見の中心人物は藤村新一で、従来の常識を覆す「成果」とされ、日本の旧石器時代は約70万年前まで遡るとされた。
しかし、2000年11月に、藤村が宮城県上高森の発掘現場で石器を埋めるところを毎日新聞取材班が撮影し、同年11月5日に旧石器発掘捏造を報じた。
その後、日本考古学協会の調査で、藤村が関与した33か所の遺跡の全てが疑わしいものとされ、今のところ前・中期旧石器時代の確実な遺跡は、日本には存在しないと理解されている。
2003年12月に、長崎県平戸市の入口遺跡で「約10万年前の地層の中から石器が発見」という報道がなされたが、段丘発達が明瞭ではない平戸地域において、層位が明瞭とはいえない状況であり、約2万2、3千年前に鹿児島の錦江湾から噴出した姶良Tn火山灰層(AT)より古いとしか断定できていない。
2009年現在、日本の旧石器で層位が間違いなく確認でき、最も古いもので4万年前まで遡るかどうかといった状況である。
長野県飯田市で、竹佐中原遺跡が発掘調査された。
この遺跡の4カ所の石器集中地点から、800余点の遺物が出土した。
石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、植物珪酸体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス年代測定など)した結果、3万年より古く5万年より新しいことが分かった。
4か所から出土した石器は2グループに分けることができ、一つは3万年〜3万数千年前(後期旧石器時代の初め頃)、もう一つは3万数千年前〜5万年前のものであること推測されている。
つまり中期旧石器時代から、後期旧石器時代へ移り変わる時期の遺跡であると考えられている。
※Wikipedia引用
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