2017/05/16

三輪山と大神神社(2)

日本で最古の神社の1つとされる。三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。

 

拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。例年1114日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる、これが各地の造り酒屋へと伝わった。摂社の檜原神社は天照大神をはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の一つとなっている。また、作者不詳の能「三輪」では、キリ(終りの部分)の歌に

 

「思えば伊勢と三輪の神。

一体分身の御事。

今更、なんと、いわくら(磐座・言わくら)や」

 

との言葉があり、伊勢神宮との関係が示唆されている。

 

なお、全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されていることについては、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻910の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。吉備国を征服する時に大和王権によって分祀されたのではないか、と推測されている。

 

近年、大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の1つに数えられている。

 

祭神

主祭神

大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)

配神

大己貴神 (おおなむちのかみ)

少彦名神 (すくなひこなのかみ)

大物主神は蛇神であり、水神または雷神としての性格を持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神(軍神)、氏族神(太田田根子の祖神)である一方で、祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。

大物主神にまつわる伝承は多いが、その中には、当社の付近にある箸墓古墳と関連するものもある

 

歴史

記紀には、次の記述がある。

 

大国主神(大己貴神)は出雲国を拠点に国造りに励んでいたが、協力者である少彦名神が常世国に去ったため思い悩んでいると、突如、海原を照らして神が出現した。その神は「吾はお前の奇魂幸魂である」といい、「吾は大和国、三輪山に住みたいと思う」といったという。その神が大物主神であるが、大物主神は大国主神の子孫であるという説もある。

 

崇神天皇7年に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である意富多多泥古(太田田根子)を祭祀主として、大物主神を祀らせたのが始まりとされる。日本書紀では天皇が天変地異に加え、疫病の流行に宸襟を悩まされているとき、夢枕に大物主神が立ち

 

「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」

 

と告げたとされる。天皇は早速、太田田根子を捜し出し、三輪山において祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。

 

国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。貞観元年(859年)2月、神階は最高位の正一位に達した。

 

その昔、大国主尊は 国造りに際して「少名彦那(すくなひこな)」の助けをかりて順調にすすんでおりましたが、ある日突然少名彦那が常世(とこよ)の国へと帰ってしまったのです。

 

さあ、大国主は大弱りです。広い国土には、まだ発展途上のところがおおく残っているので、ここで国造りを中断するわけには行きません。

 

とそこで、突然

「わたしの神霊を祀れば、国作りに力を貸そう。さもなくば、国造りはうまくいかぬぞ」

という声が聞こえてきたのです。

 

振り返ると、まばゆい光に包まれて海の上を歩いて近寄ってくる神がおりました。その白光はあまりにも強く、とても目を開けていられる状態ではありません。大国主は、ただびっくりして、何も答えることが出来ませんでした。すると光の中から、もういちど声が聞こえました。

 

「わたしを大切に祀れ。そうすれば助けてやろう」

 

大国主は、どうしても助けが必要だったので

 

「どのようにお祀りすればいいのでしょう?」

 

と問われました。すると、その光る神は

 

「大和の青々とした三輪山の頂上にわたしを祀り、身を清めてお仕えせよ。」

 

と答えられたのです。この神は「大物主の神」で、今も人々から「みいさん(蛇)、みいさん(蛇)」と親しまれ、大和の国(奈良県)の「大神神社」に鎮まっておられます。

 

神社の背後にある「三輪山(みわさん)」の山頂には、古代信仰の祀り場である「石座(いしくら)」があり、山そのものをご神体「神奈備山(かんなびやま)」として大切にお祀りしているのです。三輪の山がときどき光ると噂されるのは、こういうわけがあるからでございます。

 

豊葦原の瑞穂の国

さて、大国主は言われたとおりに光る神「大物主」を三輪山に祀ると、中つ国(いまの日本)はみるみるうちに栄え、水は豊かに沸き、葦が生い茂り、稲はたわわに実り、豊作がつづいたのでございます。このすばらしい風土を称え、中つ国(にほん)は「豊葦原の瑞穂の国(とよあしはらのみずほのくに)」とも呼ばれました。 

 

<『日本書紀』によると祟神天皇の七年、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神がかりし、また天皇の夢中に現れて告げたことにより、三輪君の祖となる大田田根子をして、この神を祭らしめる事となった。また同書には、三輪の神が小蛇の姿となって倭迹迹日百襲姫命のもとに通ったという、神婚伝承も載せている。国史にも奉幣・昇階などの記事は多くみえ、宮中の尊崇あつかったことがわかる>

 などの記述が『記紀』に記されています。


三輪の環緒(おだまき)塚の話
 <イクタマヨリ姫は、たいそう美しい乙女だった。
 ある夜、姫のもとにこの世のものとも思われぬ堂々として立派な男が現れ、二人はたちまち恋に落ちて結ばれ姫は身ごもった。このことを知らぬ姫の両親は不思議なことに思い、姫に尋ねたところ


 「みめ美しい男が毎夜のように通ってくるが、誰とも判らず契りあっているうちにこうなりました」


 と答えた。両親は、その男を知りたいと思い


 「床のまわりに赤土を撒き、巻いた麻糸(おだまき)の糸先に針を付け、男の着物の裾にさしておくよう」


 姫に教えた。姫は言いつけ通りにして、翌朝になってみると糸は入口の戸の鈎穴から外に出ており、辿って行くと美和山の社まで来ていたので、男が神の御子であることが判った。麻糸の残りが家の中に三勾(みわ)あったので、ここを三輪と呼んだ。

三輪そうめんの産地
 <素麺がいつのころから三輪で作られたかについては記録されたものはないが、三輪素麺と神社については古い伝承がある。


 十代崇神天皇の七年、大物主命の五世の孫、 大田田根子命(おおたたねのこのみこと)が、この神社の大神主に任ぜられて以来、 その子孫が代々その職を継いで奉仕していた。その十二世の孫に、従五位上大神の朝臣狭井久佐(さいくさ)の次男穀主(たねぬし)がいる。この穀主は敬神巣崇祖の念が篤く、大物主の神にまつわる「古事記」伝説を後世に伝え、この地方の産業を発展させるために糸のごとき細い素麺を創始したといわれています>

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