2017/05/15

縄文時代(1)



縄文時代は、約15,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である

旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。

 縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。

 なお沖縄県では、貝塚時代前期に区分される。

 次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。

 また東北北部から北海道では縄文時代の生活様式が継承されるため、続縄文時代と呼ばれる。

●概要
 明治時代に始まる日本の先史時代の研究は、当初は石器時代という概念で先史時代を捉えており、その中で縄文式土器を使用した時期と、弥生式土器を使用した時期が存在したという叙述が行われていた。

 また19世紀中は、日本列島の先史時代の住民をアイヌやコロボックルと考える説も有力であり、これらの説が退けられたのは1920年代である。

 だが、この時期には記紀神話を日本列島の先史時代の歴史とする歴史叙述が力を持ち、考古学の知見に基づく日本列島の先史時代像が学界を超えて形成され始めたのは、第二次世界大戦後となる。

 戦後に編纂された歴史教科書では、日本列島の先史時代に弥生式文化と縄文式文化の二つの文化の存在を示していたが、登呂遺跡や岩宿遺跡の発掘など考古学上の大きな事件が続いたことも影響し、1959年から60年にかけて日本考古学協会から刊行された『世界考古学大系』1巻および2巻において、学界における「縄文時代」「弥生時代」の区分が確立された。

 縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会と捉えられるようになった。

 「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838 - 1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器をCord Marked Potteryと報告したことに由来する。

 この用語は、矢田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改め、続いて「縄文土器」という表記が用いられるようになった。

 時代の名称が「縄文時代」に落ち着くのは、戦後のことである。

 なお佐原真は、この語の原義を念頭において「縄紋」という呼称を使用している。

●時期区分
 縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。

 土器型式上の区分から、縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる

 研究当初は前・中・後の三期区分だったが、資料の増加や研究の進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。

 そうした土器研究上の経緯を反映した時期区分であるため、中期が縄文時代の中頃というわけでもなく、生業や文化内容から見た時代区分としても再考の余地があるものの、慣用化した時期区分として定着している。

 この時期区分を、AMS法で測定して暦年代に補正した年代で示すと

 ・草創期(約15,000 - 12,000年前)
 ・早期(約12,000 - 7,000年前)
 ・前期(約7,000 - 5,500年前)
 ・中期(約5,500 - 4,500年前)
 ・後期(約4,500 - 3,300年前)
 ・晩期(約3,300 - 2,800年前) 

 となる。

 また先に示した土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式の側面から見て、幾つかの時期に分類する方法も存在している。

 縄文時代の文化史的区分については研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ学界に定説が確立されているわけではない。

●岡村道雄の区分
 考古学者の岡村は、定住化の程度で時期区分すると草創期から早期半ば頃までは住居とゴミ捨て場が設置されるが、住居を持たなかったり、季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であると想定している。

 この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。

 次いで早期末から 前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場が形成される。

 中期後半には、東日本では地域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。

 一方、西日本では遺跡数が少なく、定住生活が前期には既に後退している可能性すらある。

 後期になると東北から中部山岳地帯の遺跡は、少数で小規模になり分散する。

 関東は大規模貝塚を営み、西日本も徐々に定住生活が復活する。

 後期後半には、近畿から九州まで定住集落が散見されるようになる。

 この傾向は晩期前半まで続き、後半はさらに定住化が進み、瀬戸内地方から九州北部は水田稲作農耕を導入後、弥生時代早期へと移ってゆく。

●佐々木高明による区分
 文化人類学者の佐々木は、縄文土器編年区分のうち草創期を旧石器時代から新石器時代への移行期として縄文I期、土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期として縄文II期、土器編年の縄文前期から晩期までを完成した縄文文化が保持された時期として縄文III期に分類した。

●泉拓良による区分
 泉も佐々木による区分に近く、縄文草創期を「模索期」、縄文早期を「実験期」、縄文前期から晩期までを「安定期」としている。

●旧石器から縄文へ
 最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると、地球規模で温暖化に向かった。

 最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約13000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。

 それまでは針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。

 コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。

 北海道は、ツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が進出してきた。

 そして日本海側と南部の渡島半島では、針葉樹と広葉樹の混合林が共存するようになる。

 また温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには日本列島から、これらの大型哺乳動物が、ほぼ絶滅してしまった

 この草創期の特徴は、以下のように指摘されている。

 ・新しい道具が、短期間に数多く出現した

 例えば石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、この期に出現する。

 ・使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群が目まぐるしく入れ替わった

 ・草創期前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う

 ・急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が、次々に考案されていった

 ・狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の3つの新たな生業体系をもとに、生産力を飛躍的に発展させた

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