2017/05/02

尾張国(1)

7世紀後半以前は、木簡などから、「尾治国」と表記した。また、先代旧事本紀の天孫本紀の尾張氏の系譜にも、「尾治」とある。国名については、「開墾した土地」という意味の「大治」「小治」(おはり)が転じたという説や、大和国の豪族尾張氏が移住したことに因むという説など複数あり、その由来は現在もはっきりしていない。

 

鎌倉時代は、海道記によると

 

(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。

 

とあり、この当時、弥富市や津島市は、尾張国と見なされておらず、甚目寺町(萱津)辺りから尾張国であったもよう。日本神話での尾張国は、ヤマト王権の領土としての様子が綴られている。

 

尾張国の代表的神社である熱田神宮は、三種の神器の一つ・草薙剣(天叢雲剣)を祭っていることで有名である。倭姫命や伊勢神宮に関わる国には尾張国が含まれている。文化的にも尾張は畿内や近江・伊勢の影響が強い。

 

現在の愛知県は、明治以前まで三河国・尾張国と呼ばれていました。長野市大字北尾張部・西尾張部の地名の由来は、この「尾張」にあります。

 

平安時代の中頃に編纂された百科事典である『和名類聚抄』には、国ごとに郡名・郷名が記されています。信濃国には一〇郡があり、水内郡には「芋井・大田・芹田・尾張・大島・古野・赤生・中島」の8ヶ郷がありました。

 

「尾張」は「おはりべ」と読みます。それは、「尾張」はもともと「尾張部」と表記されていたのが、和銅六年(七一三)に郡・里名に好字(縁起の良い字)を付ける政策が出され、二文字で郡名・里名の表記がなされるようになったため「尾張部」は「尾張」と記すようになりました。

 

 室町時代になると、水内郡東条荘のうちに属していたようで、「東条庄内…尾張部散在郷」などの知行の安堵が、高梨氏から室町幕府に申請されています。天正六年(一五七八)の諏訪大社上社の造営帳には「尾張辺郷」としてみえ、七貫五〇〇文を造営料として負担しています。

 

室町時代後半の郷村制の発達の中で、尾張部(辺)郷と呼ばれていました。江戸時代の正保四年(一六四七)の正保郷帳に、「西尾張部村」「北尾張部村」と見えますから、中世から近世に移る間に、西・北に分割され、村となったものと考えられます。

 

これまで、『和名類聚抄』の信濃国水内郡の項に「尾張郷」とあることから、水内郡に尾張郷があり、そのことは古代の尾張部に「尾張部」氏がいたことを物語ると考えられてきました。「尾張部」とは、律令時代以前、おおよそ六世紀から七世紀半ば頃に尾張地方に勢力を持った「尾張」氏の経済的基盤として各地に置かれた人々(これを部曲(かきべ)と言いました)のことです。

 

646年の大化の改新を契機に各氏族に氏とカバネが与えられるようになり、この尾張部という部曲出身の人々は「尾張部」をウジとして名乗るようになったと考えられています。

 

今史料で「尾張部」氏がいたことが確認できるのは、河内(大阪府)、美濃(岐阜県)、備前(岡山県)などです。信濃国水内郡の「尾張郷」の存在も、信濃国水内郡に「尾張部」氏がいた証拠とされてきましたが、地名からその存在が推定されてきたもので、氏族の存在を証明したとは言えないものでした。

 

しかし、平成六年(一九九四)に更埴市屋代の屋代遺跡群の古代の溝から「尾張部」と墨で記された木札(木簡)が出土し、更級・埴科両郡周辺に「尾張部」というウジ名が存在したことが確かなことになりました。木簡が発見された地は水内郡ではなく、更級・埴科地域ですから、今の西・北尾張部の地に住んでいたという証拠にはなりませんが、善光寺平という少し広い視野から見れば、そこに「尾張部」氏がいたことは間違いないことだと言えるでしょう。

 

ところで屋代木簡の中には、このほかに数多くのウジの名が見いだされました。刑部・三枝部・小長谷部・金刺舎人・金刺部・他田舎人・他田部・若帯部・壬生部などは、王族の名や王宮の名が付けられた「部」(その王族の私有民)です。また、物部・穂積部・尾張部・守部・小野部などは、豪族の名が付けられた部(その豪族の私有民)で、尾張部はこのグループに入ります。最後に、酒人部・宍人部・三家人部・神人部などの「人」の付く部で、これは朝廷にその職業をもって仕えた豪族の私有民ということになります。

 

このように見てくると、善光寺平には大和地方を中心に勢力を持った王族や豪族の経済的な基盤として、多くの私有民が置かれたことがわかります。その中で、尾張部・守部は尾張氏・守氏という尾張・美濃地方に根拠を置く豪族の私有民であることが注目されます。このことは、信濃・善光寺平と尾張・美濃地方の密接な交流の証拠と考えられるかもしれません。

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