2017/12/31

アンデス文明(2)


アンデスのトウモロコシ
新大陸の諸文明や諸文化は、メソアメリカ文明や北米先住民の諸文化も含め、ことごとくヨーロッパ人(白人)の侵略によって滅ぼされるか変容を余儀なくされてしまったが、アンデス文明の場合、その一部は現代でもまだ根付いている。例えば、地方へ行けばインカ期から続く「アイリュ」と呼ばれる血縁・地縁組織が機能している所もある(殆どが有名無実化しているが)

農具でも斜面の多い土地では、インカ期と殆ど変わらない踏み鋤が用いられている。そして、インカ期に建造されたテラス状の段々畑(アンデネス)が、現代まで継続して利用されている。未だテンジクネズミ(クイ)を食肉用家畜として飼養していたり、ラクダ科動物のキャラバン隊も存在する。トウモロコシから作られた酒、チチャを農耕儀礼などの時に皆で饗するのも、インカ期から見られる習慣である。

ヨーロッパ人による、物質的な征服に続いて行われたのは魂の征服である。キリスト教布教のため、先住民の持っていた独自の宗教は弾圧を受けた。その後、カトリック化が進み、また征服以降しばらく続いた異教徒弾圧などで、アンデス文明に存在した精神世界は徹底的に破壊されたが、それでも形を変え現代でも生き残っている。特に大地の神パチャママへの信仰は、先住民社会に深く残っている。また都市部においても、祭りなどの中にパチャママ信仰に基づく慣習があり、アンデス地域に住む人々に広く浸透している。これら在来の神は、カトリックの聖人と同一視されることが多い。このようなシンクレティズムが、現代アンデス先住民の精神文化の特徴となっている。

生態学的環境
アンデス文明を理解するためには、アンデス地域の生態学的環境を理解する必要がある。この世界的にも独特な生態学的環境は、アンデス文明の発展と深く関わっているからである。アンデス地域、特に中央アンデス地域(現在のペルー共和国と、ボリビア多民族国北部)は、非常に多様な生態学的環境をもっている。南北に長く、東西に狭い地域に標高が高い山々が密接して連なるため、限られた地域に多様な生態系が存在する。ハビエル・ブルガル・ビダルは、アンデス地域を、その生態学的環境と先住民による区分をもとにして、以下の8区に分けた。

・海岸砂漠地帯のチャラ

・山間および海岸地帯に広がる熱帯地域のユンガ

・おおよそ標高3000mくらいまでのキチュア

・標高4000mくらいまでの高原地帯のスニ

4800mくらいまでの草原地帯のプナ

・それ以上の氷雪地帯を含むハンカ

・アンデス山脈の東側のアマゾン地帯を1000m以下のオマグワ、それ以上のルパ・ルパ

これら生態学的環境の差は、それぞれに地域で行われる生業にも影響を及ぼしており、ユンガ地帯は熱帯産の作物や果物類が、キチュア帯ではトウモロコシも含む多く栽培種が、スニでは殆どの栽培種が育たないため、ジャガイモなどの塊茎類とキヌアなどの雑穀が主として栽培されている。プナは主に牧畜に利用されている。また、これらの異なる生態学的環境を一集団や家族単位で同時に保有し利用を行っており、これがアンデスの文化の特徴のひとつとなっている。

アンデスへの適応
南米に人類が住み始めた痕跡を示す遺跡で最古のものは、14000年前という年代測定値を示す遺跡もみられる。確実なのはクローヴィス文化に並行する11000年前の基部が、魚の尾びれのような形状の魚尾型尖頭器を用いた狩人たちの遺跡である。チリの首都サンティアゴの南120kmにある、マストドンの解体処理を行ったタグワタグワのようなキルサイトは、この時代の特色を示す遺跡である。やがて、紀元前7500年ころまでに洞窟の開口部や岩陰を利用して生活をする人々が現れ、ペルーのトケパラ洞窟やアルゼンチンのラス・マノス洞窟には、そのような人々の狩猟への願いを表現した洞窟壁画が描かれた。

紀元前5000年頃から農耕・牧畜を行う社会となり、土器の製作、使用を行うようになる直前までを古期という。ペルー北部高地のラウリコチャ遺跡のⅡ期(紀元前6000年~同3000年)に、I期に多かった鹿に替わってリャマ、アルパカ等のラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られ、中央高地のウチュクマチャイ洞窟の5期(紀元前5500年~同4200年)で、やはりラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られることから、ラクダ科動物を飼育しようとする試みがなされ始めたと考えられている。また紀元前6000年頃までには、トウガラシ、カボチャ、ヒョウタン、インゲンマメなどの栽培が開始されたことが、北高地のギタレーロ洞窟出土の植物遺存体などから確認されている。また紀元前3000~同2000年頃から綿、カンナなどの栽培が始まったと考えられている。

諸王国の成立前夜
紀元前2500年頃になると、現在のペルーのリマ市北方のスーペ谷に、カラル(Caral)という石造建築を主体とするカラル遺跡(ノルテ・チコ文明)が現れる。遺跡の年代は、紀元前3000年から2500年ころと推定されている。しかし発掘され現在復元されている遺跡群は、すでに非常に精緻なつくりをしているため、さらに遡る可能性もある(一部、形成期と呼ばれる紀元前1800年以降の遺跡も復元されている)。海岸遺跡は日干しレンガ製が多いが、この時期の遺跡には海岸遺跡の中でも石造建築がある。カラル遺跡からは、かなりの量の魚介類が出土している。

また、ペルー北海岸にワカ・プリエッタの村落跡やアルト・サラベリー、中央海岸のカスマ谷にワイヌナ、中央海岸地帯にアスペロ、同じく中央海岸地帯でリマの北方にエル=パライソといった神殿跡が築かれる。エル=パライソはU字型に建物が配置され、その一辺が400mに達する。一方、山間部では小型の神殿が建てられるようになる。紀元前3000年頃、北高地サンタ川上流にラ=ガルガーダの神殿、紀元前2500年頃には、コトシュ遺跡(ペルー、ワヌコ県)に交差した手をモチーフにした、9m四方の「交差した手の神殿」が築かれた。

いずれも、当時はまだ土器を持たない時代といわれており、土器の誕生以前にこのような神殿群を誕生させたところに、アンデス文明の特徴があるともいえる。王の存在を強く認めるようなものは、今のところ出ていない。アメリカ合衆国の編年では、この時期を先土器時代と区分することもある。紀元前1800年頃になると、土器の利用が始まることが確かめられる。
※Wikipedia引用

2017/12/30

異才エンペドクレス「愛と憎しみ」


出典 http://noexit.jp/tn/
哲学史は、2人の天才を生み出したヘラクレイトスとパルメニデスである。

ヘラクレイトスは「存在は変化する」と言い、パルメニデスは「存在は変化しない」と言った。まったく正反対の哲学が、ふたつ出てきてしまった。しかも、どちらも、それなりに正しいように思える。パルメニデスの言う「存在は変化しない」という哲学は、とっても合理的で理性的で、正しそうだ。だが、本当に「存在は変化しない」のであれば、世界はカチコチの石のように止まってしまうんじゃないか、という疑問も出てくる。その意味では、ヘラクレイトスの「存在は変化する」というのも正しいように思える…。つまるところ、理性的には「存在は変化しない」ように思えても、感覚的には「存在は変化している」ように見えるのだ。

哲学史は、この相反する二つの哲学を統合する必要に迫られる。そして、それをやったのが、エンペドクレスである。エンペドクレスは、B.C.450年頃の哲学者で、かつ、詩人であり、医者であり、民主政治を導いた偉大な政治家でもあった。さらには呪術的な能力を持った宗教家でもあった、というわけのわからない人だ。

そんな異才エンペドクレスは、こう考えた。

「存在は決して変化しない。それはそのとおりだろう。水は、どこまで小さくしても『水』だろうし、土はどれだけ小さくしても『土』だろう。
しかし実際に、この世界には多種多様なものが存在している。ならば『水』や『土』などの、決して変化しない最小単位の根源(元素)があり、それらが結合したり分離したりして、多種多様なものに見えるという考えはどうだろうか?
そう考えれば、パルメニデスもヘラクレイトスも両方、正しいと言える」

たとえば絵画などは、どんなに複雑な色使いをしていても、実は、「赤、青」のような数種類の原色からできているにすぎない。それら原色を混ぜ合わさると、多種多様な色彩がそこに現れる。だが、その色彩の根源となっている「赤」や「青」などは、実際には決して変化していないことは明白である。

確かに、このように考えればヘラクレイトスの意見もパルメニデスの意見も、すっきりまとめることができる。要は「存在は変化しないが、変化しているように見える」という矛盾をエンペドクレスは

「元素(存在)は決して変化しないが、元素には複数の種類があって、それらが結合したり、分離したりすることで『見ための上で』モノが変化したり消えたりする」

という考え方で解決できることを見事に示したのである。

ちなみに、エンペドクレスが元素だと考えたのは「地・水・火・風」の4つであった(古代人の自然観として、この4つが出てきたのは当然の成り行きだろう)

エンペドクレス曰く

「万物は地・水・火・風の4つの元素からなり、その元素は愛や憎しみによって結合・分離する」

ここで、結合の原因として「」、そして、分離の原因として「憎しみ」という概念が出てきたのは、非常に重要なところである。ここで言う「」とは引力であり「憎しみ」とは斥力である。複数の元素が、引力や斥力などの「」によって運動することで成り立つシンプルな世界。まさに、現代に通じる世界観を打ち出したのが、このエンペドクレスという人なのである。

ちなみに、エンペドクレスはピタゴラス教団に傾倒しており、秘教的なことが好きな誇大妄想家でもあったようだ。ゆえに、発狂して神と一体となるために、火山に飛び込んで死んだという逸話が残っている。真偽のほどはわからないが、とりあえず「歴史上、靴を脱いで揃えてから、飛び降り自殺した初めての人間」としても名前が残っている。

ともかく。「決して変化しない元素」が「愛(引力)」や「憎(斥力)」によって「結合・分離」するという発想は、近代科学に繋がる重要な世界観であり、後の哲学史に大きな影響を与えた。

2017/12/29

三大考(6)

第八図



記によると「大穴牟遲命・・・御祖(みおや)の命は子に『須佐之男命のいる根の堅洲国へ行きなさい。あの大神がいいように取り計らってくれるだろうから』と言った。そこで命ぜられた通り、須佐之男命のもとを尋ねて行った。・・・大神は黄泉比良坂まで追ってきて、遙かに遠くから大穴牟遲命に呼ばわった。・・・国作りを始めた。」

 

「それ以降、大穴牟遲命は少名毘古那神と二神相並んで国を作り固めた。だが後に、少名毘古那神は、常世の国に行ってしまった。」ともある。

 

大国主命が生きたまま泉の国に行き、また還ってきたのは、この記載の通りである。とすればこの頃、まだ大地と泉は離れておらず、地中から通う道があったのである。黄泉比良坂のことは、第六図を参照せよ。

 

この後、記によると「天照大御神が「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきながいおあき)の水穂の国は、私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳の命が治めるべき国だ」と言って、天降らせた。この時天忍穂耳命は天の浮橋に立って言った。・・・また天に上って・・・」

 

また「日子番能邇々藝命がいざ天降りしようとしているとき、天の八衢(やちまた)にいて、上は高天の原を照らし、下は葦原の中つ国を照らしている神があった。」

 

第九図




記には「天津日子番能邇邇藝命は、天の石座を離れた。天にたなびく雲を押し分け、神威によって道を押し開いて天の浮き橋に立ち、ついに筑紫の日向の高千穂の久士布流多氣に降り立った。」とある。

 

天の浮橋の行き来は、初め伊邪那岐・伊邪那美の二神が天地を往来したときには近い距離だったように思われるが、この皇御孫命の天降りの様子は非常に遠いようであり、次第に天地の間が離れていったと思われる。天の浮橋は天地が相続く筋であるが、天地が離れて行くに従って次第に細く薄くなって、皇孫の天降るまではまだあったけれども、天降って後はとうとう切れて断絶し永久に天地の行き来はできなくなった。これは喩えて言うと、人の子が生まれるまでは臍の緒で胞衣とつながっているのが、誕生後は切れて離れるようなものである。これらは単に状況が似ているというのでなく、意味合いもそっくりだ。皇孫の天降ったのは、子供が生まれたようなものだ。二柱の神が生んで作り、天照大御神が生まれたこの国の君主が決まって天降り治めたのは、この天地が完全に成り終わったのである。これは木や草の実が熟するのと、全く同じ理屈だろう。

 

これからしても皇国が天地のもとであり、皇孫の命が四海万国の大君であることは明らかで、尊貴などと言うのもまだまだ平凡な表現である。それを世の人々は、いたずらに外国の妄説に惑わされ皇国がこれほど尊いことを知らない。たまたまこういうことを聞いても、かえってそれを論破しようとするのは、どうした曲がった心だろうか。

 

○天の浮橋のことは、上記の書物などを見ると古事記伝にも言われているように一つだけだったのでなく、あちこちにあったらしい。たぶん筋は一筋だったが、その端が地上に着くところで幾筋にも分かれていたのだろう、それともその筋が下の方では分かれていたのかも知れない。そういう細かいことは分からない。いずれにしても、全体の様子は変わらない。

 

○地と泉が断絶した時期がいつかということは分からないけれども、天地が離れた時代に準じて、おおよその時期は推測できる。大国主命が生身のままで黄泉の国とこの世を行き帰りしたことは、上述の通りである。その後、長い時間をかけてこの国を作り固め、経営した。しかし出来上がった後は皇孫の命にこの国を譲り、八十坰手(やそくまで)に隠れてご奉仕するというのは、この世を去って黄泉の国に住み幽事(かくりごと)を掌るということで、普通の人の死と同じように聞こえるので、この時には、もう地上から黄泉に通う道は途絶えていたのだろう。これも細かくは知ることができない。普通、世の人々が死ぬ時には屍はこの世に留まり、魂だけが黄泉に行くので、この国から続く道がなくても行けるのだが、生き身のままで行き来するのは、その道がなければならないはずである。

2017/12/23

アンデス文明(1)



アンデス文明とは、1532年のスペイン人(白人)によるインカ帝国征服以前に、現在の南米大陸、ペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへ繋がるアンデス中央高地に存在した文明。四大文明などと異なり文字は持たない。その担い手は、12千年前にベーリング海峡を渡って、アジアから移動してきたモンゴロイド(黄色人種)の中の古モンゴロイドとされる。

特徴
アンデス文明の中心地帯は、主に海岸部、山間盆地、高原地帯に分かれる。山間部と高原地帯は、一緒に扱われることも多い。アンデス文明の大きな特徴としては、次の7点が挙げられる。

1.文字を持たない。これは、旧大陸の四大文明や新大陸のメソアメリカ文明とは異なる、最も大きな特徴である。代わりに縄の結び目で情報を記録するキープというものがあった。

2.青銅器段階。鉄を製造しなかった。また、利器として青銅は殆ど利用されることはなく、実際には新石器段階に近かった。

3.金や銀の鋳造が発達していた。これらの製品は、その殆どがスペイン人によって溶かされ、インゴットになってスペイン本国へ運ばれていった。

4.家畜飼育が行われていた。ラクダ科動物のリャマが荷運び用の駄獣として、アルパカが毛を利用するために、また食用としてテンジクネズミ(クイ)が飼育されていた。しかしながら、旧大陸のそれとは異なり、ラクダ科動物の乳の利用(ラクダ科動物は乳が少ないため)はなかった。

5.車輪の原理を知らなかった。駄獣はいたが、この原理を知らなかったため、戦車や荷車などは発達しなかった。

6.塊茎類を主な食料基盤とする。アンデス文明では、塊茎類(ジャガイモやオカ、マシュア(イサーニョ)、サツマイモ、マニオク(キャッサバ)、アチーラなど)を食用資源として主に栽培していた。世界の四大文明やメソアメリカ文明が穀物を主要食料基盤として発展したのに対し、アンデス文明では、穀物の主要食料源としての価値は低く、穀物資源を主な食基盤とした文明ではなかった。穀物では、トウモロコシが一部は食用されていた可能性はあるが、スペイン人の記録文書などから、主にチチャと呼ばれる「酒の原料」として利用されていたことが確認されており、食用ではなかったと言われている。考古遺物からもチチャを飲むために利用したと言われているコップや、貯蔵していたといわれているカメなどから、トウモロコシのかすと思われる残滓が検出されているという。

このほか、キヌアなどの雑穀やマメ類などの利用も高原地帯で見られた。ただ、海岸地帯では、古い時期から魚介類も多く利用されていた。そのため、一部の研究者は、海岸のアンデス文明の曙には、魚介類を主要食糧基盤とする説もある。だが、最近では、漁労が生業として他から独立していたというモデルへは反論が多い。実際に、現段階で最も古い遺跡であるペルーの首都リマ北方にあるカラル遺跡(BC3000-BC1800:世界遺産)では、農耕と組み合わせが主張されている。

塊茎類ほど食用作物として、アンデス地域全体に広がった作物は少なく、その意味ではアンデス文明を底辺で支えた、最も重要な食料基盤であった。同じく、トウモロコシもアンデス中に広がったが、これは食用ではなく酒(チチャ)の原料として広がった経緯があり、厳密には「食料基盤」とはいえない。

7.アンデス特有の生態学的環境と文化・文明の発展に深い関係が見られる。生態学的環境との関わりが非常に強く、また複雑に結びついている。他の旧大陸の文明が全て大河沿いに発展してきたのに対し、アンデスでは山間部や高原地帯の果たした役割が非常に大きい。ただし、実際には海岸の河川沿い、山間盆地、高原地帯といった、まったく異なる生態学的環境で互いに交流を持ちながらも、それぞれが独自の文化を発展させ、総体としてアンデス文明を発展させてきた。山間盆地や高原地帯で見られる独特の環境利用法については、国家規模の社会の成立過程に大きく寄与したのではないか、という説(垂直統御説)もある。

このほか、アイリュ(またはアイユ、Ayllu)と呼ばれる地縁・血縁組織の存在、双分制、トウモロコシ酒チチャの利用、コカの葉などを利用した儀礼などもアンデス文明圏、特に山間盆地や高原地帯で見られた特徴である。また、チリ北部からペルー南部には、硝石が豊富にあるが火薬の製造も行われなかった。鉄鉱石が豊富な地域が多いが鉄の鍛造は行われることはなく、武具もあまり発達せず、石製の棍棒や弓矢程度であった。一方で、棍棒の武器によるものであろうか、陥没した頭蓋に対して、脳外科的手術を行い血腫などを取り除く技術が存在していた。形成期といわれる紀元前の社会の遺跡から見つかった頭骨の中には、陥没した痕が治癒していることを示すものがある。これは、頭蓋が陥没した後も生き延びたことを示している。これらの外科的手術は、儀礼的な面から発達した可能性も否定できない。アンデスに自生するコカが麻酔として利用されていたという。

さらに、世界最古の免震装置であるシクラが発見されている。アンデス文明の中心は、およそ2ヶ所あるともいわれ、その2ヶ所に人口も集中していたといわれている。ひとつが現在のペルー共和国、トルヒーヨ市周辺の北海岸地帯、もうひとつがペルー共和国南部からボリビア多民族国北部にある、ティティカカ湖盆地一帯といわれている。しかしながら、文明の勃興期(形成期)には、中央海岸地帯にも盛んに大規模建造物が建てられたり、また中期ホライズン(ワリ期:後述)やインカ帝国は、ティティカカ湖沿岸の文化と深い関係を持つものの、中央あるいは南部山間盆地から興っている。そのため、2つの中心という観点は、あくまでも仮説の段階にある。
※Wikipedia引用

2017/12/21

エンペドクレス「四元素説」



エンペドクレスEmpedocles、紀元前490年頃 – 紀元前430年頃)は、古代ギリシアの自然哲学者、医者、詩人、政治家。アクラガス(現イタリアのアグリジェント)の出身。四元素説を唱えた。弁論術の祖とされる。名家の出身で、彼の祖父は紀元前496年に行われたオリンピア競技(競馬)で優勝した。彼自身も、優勝したことがあるようだ。ピュタゴラス学派に学び、パルメニデスの教えを受けたとされる。

アクラガスの町を強風が襲った時、エンペドクレスは人々にロバの皮でたくさんの革袋を作らせた。それを周囲の山の尾根に張り巡らせ風を鎮めた。それから、人々は彼のことを「風を封じる人」と呼んだ。

エンペドクレスは自由精神を重んじ、権力に屈しなかったという。執政官の一人から食事に招かれた時、賓客たちの中に評議会の監督官がいた。その男は座長に指名されると、他の賓客たちに酒を飲み干すか、頭に注ぎかけることを強要した。その振る舞いを見たエンペドクレスは、翌日その男を法廷に告発し有罪とさせた。

ある時、セリヌゥスという町の住人が、付近を流れる汚染された川から広がった疫病に悩まされていた。それを聞いたエンペドクレスは、私財をなげうって土木工事を行い、別の川の流れを汚染された川に引き込み、中和させて疫病を鎮めたという。金冠を頭に戴き、紫色の衣に金のベルトを巻いて、デルポイの花冠を携えて諸都市を巡り歩いたという。

ひとりの知者も見いだせない」と語る人に対して、こう答えた。
「もっともだ。知者を見いだすには、まずその人自身が知者でなければならないからね」

エンペドクレスの死については、エトナ山の火口に飛び込んで死んだ、馬車から落ちた際に骨折し、それがもとで死んだなどの説が残されているが、真偽ははっきりしない。フリードリヒ・ヘルダーリンは、神と一体となるためエトナ山に飛び込み自死を遂げたという説を主題に、未完の戯曲『エンペドクレス』を創作した。ホラティウスも、その『詩論』で、この説について言及し「詩人たちに自決の権利を許せよ」(sit ius liceatque perire poetis) と謳っている。

思想
物質のアルケーは火、水、土、空気の四つのリゾーマタ(rizomata:根)からなり、それらを結合する「ピリア(φιλια 愛)」と分離させる「ネイコス(憎)」がある。それにより、四つのリゾーマタ(四大元素)は集合離散をくり返す。この四つのリゾーマタは新たに生まれることはなく、消滅することもない。このように、宇宙は愛の支配と争いの支配とが継起交替する、動的反復の場である。また太陽は巨大な火の塊であり、月よりも大きい。天は氷のように冷たいものが集まってできており、星々は火のリゾーマタが集まってできている。これは、後世に「四元素説」と呼ばれた。

魂は頭や胸ではなく、血液に宿っているとした。魂の転生説を支持し「わたしはかつて一度は、少年であり、少女であり、藪であり、鳥であり、海ではねる魚であった」と述べた。また、最初の人間は土から頭や腕や足などの体の一部が最初にでき、それらが寄り集まって生まれたと説いた。感覚について考察し、視覚は目から光が放出されて対象物に当たることによって生じ、聴覚は耳の中にある軟骨質の鐘のような部分が、空気によって打たれることにより生じるとした。磁力の起源についても考察した。

芥川龍之介は、久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」の最後に、エンペドクレスの話を付記している。

「僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下(だいぼんげ)の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹(ぼだいじゆ)の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覚えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。」
Wikipedia引用