弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110 は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチが1960年に作曲した弦楽四重奏曲である。
作曲者によって「ファシズムと戦争の犠牲者の想い出に」捧げるとしてあるが、ショスタコーヴィチ自身のイニシャルが音名「D-S(Es)-C-H」(DSCH音型)で織り込まれ、自身の書いた曲の引用が多用されることにより、密かに作曲者自身をテーマにしていることを暗示させている。全15曲あるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の中で、最も重要な作品である。
初演は1960年10月2日、レニングラードのグリンカ小ホールでベートーヴェン弦楽四重奏団によって行われた。
また原曲以外に、ルドルフ・バルシャイによる弦楽合奏への編曲版が『室内交響曲』(作品110a)として知られている。
曲の背景
本作が作曲された1960年は、ショスタコーヴィチにとって大きな精神的危機に見舞われた年であった。この曲を書く直前の6月、不本意ながらも共産党に入党することを決意したのである。その1ヶ月後、戦争後のドレスデンでの有名絵画救出劇の映画『ドレスデンの五日間』(作品111)の、ソビエト軍によるドレスデンのナチスからの解放の場面のための音楽を書くためにドレスデンに行ったショスタコーヴィチは、戦争の惨禍を目の当たりにし、自身の精神的荒廃と重ね合わることになる。そこで表向きには「ファシズムと戦争の犠牲者」に献呈するようにみせつつ、圧政により精神的荒廃に追い込まれた自身への献呈として、同年7月12日から14日のわずか3日間でこの曲を作曲したのである。
7月19日にショスタコーヴィチ自身が友人グリークマンにあてた手紙には、映画音楽の仕事が全く手に付かずに、ひたすら弦楽四重奏曲の作曲に向かったと述べ、「この曲を書きながら、半ダースのビールを飲んだ後の小便と同じほどの涙を流しました。帰宅後もこの曲を2度弾こうとしましたが、やはり泣いてしまいました」と苦しい気持ちを訴えている。
このようにして書かれたこの曲は、すべての弦楽四重奏曲の中で最も、皮肉とは無縁の直接的表現力を持ち、聴衆に訴えかける力を持っている。また、映画音楽にも通じていたショスタコーヴィチは、バルトークやヴェーベルンのような特殊奏法を弦楽四重奏に用いずとも、標題音楽的手法により劇的な表現を実現している。
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