スッペの最も有名な代表作である。
当時、ウィーンでは「オペレッタ」というものが隆盛を極めていた。オペレッタとは「小さいオペラ」という意味だが、演奏時間的にはオペラと変わり無いものが多く、楽しい笑劇ともいえる軽い内容のものである。そこには、オッフェンバックに代表されるフランスのオペレッタとウィーンのオペレッタのつの系統があり、ウィンナ・オペレッタの開祖とも言えるのが、このスッペだ。
1840年以来、ウィーンの歌劇場で指揮者兼作曲家として活躍し「詩人と農夫」(1846)など、流麗な旋律の劇音楽を書いていた彼に、大きな転機が訪れたのは1858年のこと。この年、ウィーンで初めてオッフェンバックの「天国と地獄」他のオペレッタが上演された。これを観たスッペは
「そうだ!
俺の書きたかったのは、こういう楽しいオペラだったんだ!」
と膝を叩いて叫んだとか。それからはウィーンの音楽風土にあったオペレッタの創造に全力を注ぎ、1860年には初のウィーン風オペレッタ「寄宿学校」を発表。1865年にはオッフェンバックの「美しいエレーヌ」に対抗して「美しいガラテア」を書き、これが大成功を収め本格的なウィンナ・オペレッタの誕生となった。
その後も「軽騎兵」(1866)、「ボッカチオ」(1879)など名作を生み続け、パリのオッフェンバックとオペレッタ界の人気を二分した。スッペが独占していたウィンナ・オペレッタ界も、1871年にワルツ王ヨハン・シュトラウス2世が進出して「こうもり」(1873)、「ジプシー男爵」(1885)などの名作を書くに至り、一気に競争が激化してきた。スッペ、シュトラウス、それにミレッカーの3大巨匠が活躍した19世紀後半をウィンナ・オペレッタ「金の時代」、それに対し20世紀前半にレハール、カールマーン、オスカル・シュトラウスなどが人気を集めた時期を「銀の時代」と呼ぶが、スッペに始まり金銀の時代を経たウィンナ・オペレッタは世界中で愛好され、イギリスに渡って現代のミュージカルのルーツの一つともなった。
ちなみに、スッペの本名は「フランチェスコ・エツェキエーレ・エルメネジルド・カヴァリエーレ・スッペ・ダニエル」というやけに長いイタリア風の名であった。この喜歌劇の初演は大成功を収めたが、今ではその喜歌劇の台本ははっきりしたものは現存しておらず、この序曲だけが後世にしっかり残っている。
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