2009/07/02

自己実現の過程(東京劇場・第7章part2)

かくしてワタクシはユングに解を求め、辿りついたのが「集合的無意識(ドイツ語:Kollektives Unbewusstes」という概念だ。

 

《言語連想試験の研究によって「コンプレックス(complex」の概念を見出したユングは、個人のコンプレックスより更に深い無意識の領域に、個人を越えた集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられる、先天的な元型の作用力動を見出した。

 

元型の作用と、その結果として個人の夢や空想に現れるある種の典型的なイメージは、様々な時代や民族の神話にも共通して存在し、このため元型や元型が存在すると仮定される領域は、民族や人類に共通する古態的(アルカイク)な無意識と考えられ、この故にユングはこの無意識領域を「集合的無意識」と名づけた。

 

人間の行動や思考・判断は、自我と外的世界との相互作用で決まって来る面があるが、他方、集合的無意識に存在するとされる諸元型の力動作用にも、影響される面がある》

 

《ユングが提唱した分析心理学における中心概念であり、人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域である。

 

普遍的無意識」とも呼ぶ。「個人的無意識」の対語としてあり、ユングはジークムント・フロイトの精神分析学では説明の付かない深層心理の力動を説明するため、この無意識領域を提唱した。ユングは、集合的無意識に様々な元型の存在を認めたが、それらは最終的に自己(Selbst)の元型に帰着すると考えた。自己の元型は心(魂)全体の中心にあると考えられ、外的世界との交渉の主体である自我は、自己元型との心的エネルギーを介しての力動的な運動で変容・成長し、理想概念としての「完全な人間」を目指すとされた。

 

このように、自我が自己との相互作用で成長し、球的完全性へと向かう過程を、ユング心理学(分析心理学)では「個性化の過程」あるいは「自己実現の過程」と呼んだ。個性化の過程において、自己元型は「影」の元型や「アニマ・アニムス」の元型、あるいは「太母(Great Mother」や「老賢者(Old Wise Man」の元型として、力動的に作用する》

出典Wikipedia

 

一人の人間を考えてみると、意識は自我を中心にある程度統合性を持っており安定している。それゆえ、一人の人格として成り立ち「私」と言えるし、また外界も「私」を認識してくれる。このように、人間はある程度安定しているものですが、その安定を崩してまででも「より成長しよう」とする傾向がある。これは個人だけでなく、社会にも言えることだ。

 

まず何かに向かって邁進し、やがてそこで安定する。そこで終わればよさそうなものだが、そのままでは成長がないわけだし、そもそもそれでは成り立たなくなってくるので、その安定を壊してでも成長する事、変容する事が望まれるのである。前の安定に縋る事で、次の時代で滅びることもあるだろうし、悩んでいる人というのは、その間で悩んでいるのかもしれない。人生のどこかで変容する事を要求され、それを経ることが人間としての成長することになる。

 

《で、このような「個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」をユングは『個性化の過程』、あるいは『自己実現の過程』と呼んでいます。

 

噛み砕いて言うと「人生を通して自分でも知らない、それでいて心の奥の方に内在する、そんな究極の理想像のようなものに近づいていく過程」、そういう風にも言えるでしょうか。あるいは違う見方をすると、病気に苦しむ人、何らかの問題に悩む人、そういう人たちも、それらの問題を通して本来なるべき自分の理想像に気づき近づいていく、そんな仕事に取り掛かり始めているのかもしれません。今の(あるいは、今までの)安定を壊す事で、次のステップに進もうとしているわけです》

 

《ある人の意識が安定した状態であっても、つまり自我が変更する必要を感じなくても、ある時、無意識下の内的問題や現実世界の外的問題により、自らが変化することを強要されることがあります。

 

価値観の崩壊と再構築」とか「生き方の変更」とか、「誰かを赦すこと」とか「認めたくないものを認める」とか、色々あるでしょう。更には内的に出てくるものもあれば、外的に突きつけられる場合もあるでしょう。

 

中年の危機」といわれるものも、この類かもしれません。ある程度の地位を築き、自分でも世間でもある程度社会で成功を収めたり、社会に適応していると思っている人でも、ある日突然に説明のできない不安に襲われる場合もあるでしょう。

 

あるいは、長年適応した社会に新たな価値観が現れ、それとの適応を急に迫られ困る場合もあるかもしれません。前者は、内的に深い部分からの要求であるように思いますし、後者は外的な要求のように思います。これは自我にとっては非常に理不尽で辛いことですが、それでも問題が投げかけられてしまいます》

 

《「変われ」、「適応せよ」と要求されます。その要求は時に内的であったり、時に外的であったりします。このように、心は(あるいは魂は)自我の崩壊や既存の価値観の崩壊という危険を冒してまで、ひとりの人間としての成長を要求したりします》

 

《そして、これを考えるとき、ユングは『自己』の概念を構築しました。ユングは自我が意識の中心であるのに対し、自己は意識と無意識を含んだ「心の全体性」であると考えました。自己は「意識と無意識の統合機能の中心」であり「人間の心に存在する二面性を統合する中心」とも考えられます。

 

ユングは、ある論文の中で「二重人格として生じるものは、新しい人格の発展の可能性が何らかの特殊な困難性のために妨害され、その結果、意識の障害として現れたものである」と述べています>

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