2009/07/18

甲斐

  甲斐国は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、東海道に位置する。現在の山梨県にあたる。甲州と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、中国。7世紀に成立した。

 

律令制下では東海道に属し、駿河国から甲斐国に通じる支線があった。国名の語源は不明であるが、本居宣長は『古事記伝』において、甲斐国出身の門弟で後に甲斐地誌『甲斐名勝志』を著している萩原元克の説に従い、山の峡(カヒ=間)、つまり山々間に由来するという説をあげている。近代には、橋本進吉が『上代特殊仮名遣』において峡説を否定したことから新たな解釈が求められ、近年は平川南が古代甲斐国が官道である東海道と東山道の連結的に位置することから、行政・交通上の「交ひ」であったことに由来するという新説を提唱している。

 

平安時代には出土文字資料にも甲斐国名が出現し、甲府市横根町の大坪遺跡では「甲斐国山梨郡表門」、南アルプス市百々(旧[中巨摩郡]白根町)の百々遺跡では「甲斐」の墨書土器が出土している。

 

日本列島における東西の政権にとって、最前線と位置付けられることが多い。考古学的には、4世紀後半に甲府盆地南縁に東海地方経由で、畿内色の影響を受けた甲斐銚子塚古墳を代表とする大型古墳が立地しており、中央のヤマト王権の東国における進出拠点になっている。

 

古代には支配の中心地が、盆地東部の東郡地域へ移る。

 

平安後期には、甲斐源氏が盆地各地へ進出する。

 

中世には京都と関東(鎌倉)の中間に位置することから、それぞれの防衛拠点として位置付けられた。

 

室町時代には鎌倉府の影響下にあったが、上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏が没落し争乱状態となる。

 

戦国時代には、武田氏が国人勢力を征圧して戦国大名化し、信虎・信玄・勝頼の三代期には拡大領国における本国となり、甲府が政治的・経済的中心地となる。武田氏滅亡後には、豊臣政権が関東8か国を領した徳川家康に備えた最前線として、豊臣系大名が配置された。

 

 江戸時代には、江戸幕府の政治的・経済的中心地となった江戸防衛の戦略正面と位置づけられ、東海道や中山道とともに甲州街道が整備され、甲府藩が立藩され徳川一族や譜代大名による統治が行われ、享保年間には幕府直轄領化され代官支配となり幕末に至る。

出典Wikipedia

 

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

山梨県は、古くは甲斐(かひ)国でした。甲斐国は東は武蔵国・相模国、南から西は駿河国、西から北は信濃国に接します。北東部は秩父山地、西部は赤石山脈(南アルプス)、南東部は富士山北麓と四方を山に囲まれ、中央の甲府盆地を北西から流れる釜無川と北東から流れる笛吹川が貫いて合流し、富士川となつて南流しています。

 

『日本書紀』雄略紀13468)年9月条に「ぬばたまの柯彼(かひ)の黒駒」とあり、この「柯彼(かひ)」は「狭(かい)」で「山と山との間」の意味と、古来解されています。大化改新以前には、この国は狭穂彦王(開化天皇の皇子彦坐王の子)の子孫といわれる甲斐国造が統治していたとされます。『延喜式』などには、巨麻郡北部に穂坂・柏前・真衣野(まきの)の3官牧がみえ、毎年朝廷へ馬が貢上されて駒牽の行事が行われました。

 

甲斐国には山梨・八代・巨麻(こま)・都留4郡が置かれていました。『和名抄』は、「加比(かひ)」または「賀比(がひ)」と訓じます。

 

『常陸国風土記逸文』に

 

「登蓮法師云、ひたちの国の風土記に、浅く広きは澤といひ、深くせば狭きをばかひやといふとみえたると申し侍しかど、彼風土記見えずおぼつかなし」(袖中抄第一)

 

とあり、この記事は孫引きであって疑問が存するとされます。しかし、この「かひや」は、「カヒ・イア」、KAHI-IA(kahi=wedge;ia=indeed,stream)、「川が流れる・くさびのような(深く狭い場所。峡谷)」と解され、「かひ」は平面的地形を表す語ではなく、立体的地形を表す語と解するのが妥当と考えられます。

 

この「かひ」、「がひ」は「カヒ」、KAHI(wedge)、「くさびのような(深く狭い峡谷が、山に入り込んでいる地域。その国)」、「(ン)ガヒ」、NGAHI(=ngawhi=suffer penalty,be punished)、「(狭穂彦王の乱に連座して)罰を受けた(首長が治める地域。国)」(NG音がG音に変化して「ガヒ」となった)の転訛と解します。

 

 甲斐性の甲斐は「やりがい」とか「ふがいない」の「かい」と同じで

 

・「効(かひ)」からの転という説

・「替ふ(かふ)」の名詞形「かひ」→「替わりになるもの」→「値打ちのあるもの」という説

 

があるようだ。

 

通説としては、現代語の「代える・替える」に相当する四段動詞「替ふ(かふ)」の名詞形「かひ」から来たとすることで固まっていると思われる。つまり「代わりになるもの」、「替えることのできるもの」から「価値のあるもの」となり、転じて「効果」、「効き目」という意味になったというもので「」が付いたのは「値打ちのある性質」という意味からだと思われる。

 

いずれ「甲斐」は当て字だろうが、武田信玄の甲斐の国や九州で勢力を伸ばした「甲斐氏」のイメージから当てられたような気がする。甲斐性の「甲斐」は「」の意味で、甲斐国の「甲斐」は「交い(かひ)」の当て字だ。

 

古くは平安時代ぐらいから「価値のあるもの」という意味で使われていた(竹取物語にも出てくる)

 

どうして貝が価値があるものかというと、昔は貝(子安貝)を通貨として使用していたからである。転じて「結果(=行動の価値)がある」、「期待できる価値」 を意味する。

 

「不甲斐無い」などもこれに該当し、語源はネパール語の「kyay(あるもの)」だと言われている。竹取物語にも

 

「つばくらめ(燕)の子安貝を持参すれば嫁ぐという約束だったので、懸命に探したが見つからず『かひなし』と言った」

 

という話がある。

 

昔から甲斐国 (今の山梨県付近)は「黄泉国」との境目があるとされていて、現世と黄泉が交わる場所と言う意味で「甲斐」という名前が付いたと言われ

 

「伊邪那岐命が黄泉の国から帰ってくる時、持ち物を投げ捨てたところから奥津甲斐辨羅神という神が生まれた」

 

というところに由来する。

 

また「かひ」という言葉自体には「仮つ中」の意味や「渓(かい)」と言う意味もあった。「貝」も殻と殻が交わる事から「交ひ」と呼ばれたのが由来である。また「甲斐」という字は、甲羅の模様が左右対称で美しい事をも示している。

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