2009/07/25

大恐慌(東京劇場・第8章part2)

生きる上では、理想と現実のギャップがある。理想の追求は「良く生きる」ために大事なことだが「良く生きる」ためには、まず「生きる」ことが大前提である。

 

人は何のために生きるのか?

 

「人はパンのみに生くるにあらず」を持ち出すまでもなく、各人が理想とする「良い生き方」を目指すことこそが究極の目標であることは言うまでもないが「良い生き方」をするためには、まず生きていく上で最低限の食事を摂って「物質的な生」を確保しなければならず、そのためには最低限の収入は必要である。

 

わかりやすく言えば、芸術家が自分の書きたいものを追求する姿勢は尊いが、作品が売れたりスポンサーが付かなければ収入にはならない。食べることもままならなければ、仕方なく身過ぎ世過ぎのためにやりたくない仕事もこなさなければならない。ゴッホのような金にまったく執着がなさそうな天才は、あくまでも例外的な存在だ。

 

「いわゆるサラリーマン」にしても、皆が自分の理想とする仕事に日々従事しているわけではないだろうし、寧ろ理想とは程遠い現実を受け入れ、身過ぎ世過ぎのために理想には目を瞑っているのというのが、多くの現実の姿なのだろう。これをこの時の自分に当て嵌めてみれば、G社の紹介で入ったNTT某の仕事は、エンジニアの自分としては時計の針を数年前に戻したような下流工程で、あまりにも理想とは懸け離れていた。だが現実として目の前にあった仕事であり、収入的には過去の職場に比べて結構な好待遇も用意されているのだから、理想には目を瞑って自分の気持ちを誤魔化しながら、数ヶ月勤め上げるという選択肢も勿論あった。あったと言うよりは、多くのエンジニアであればそうしただろうし、それでなくとも「100年に一度の大不況」などと声高に叫ばれているご時世だから、現場を離れてもおいそれと次の仕事が見つかる保証などは毛頭ない。

 

ところが「嫌となったら我慢できない」というこの性分は、どうにもならない。さらに幸か不幸か気軽な一人身だから、ある程度収入が途絶えたり少なくなったりしたとしても迷惑を蒙る家族もいないから、自分が贅沢や楽しみを我慢できさえすれば、それで済むことなのである。

 

これを要するに「単に堪え性がないだけででしょ?」と決め付けてしまえばそれまでで、確かにその通りなのだとの自覚もある。だから今更他人に言われるまでもないし、まったく大きなお世話というものだ。寧ろこちらからすれば、やりたくもない仕事に我慢して執着していることの方が、よっぽど理解できない。

 

人はパンのみに生きているのではない」というのは、まさに真理で「生きること、それ自体が目的」というのは、やはり本末転倒である。折角の人生なのだ。「なにが折角なんだ?」というような屁理屈はさておき、理屈抜きで生まれて来たのだから、やはり「良い生き方」を追求したくもなるし、良い生き方とは「自己の素質や能力などを発展させ、より完全な自己を実現」すること、と考えるのが穏当である。

 

「生きること、それ自体」は、本来「自己の素質や能力などを発展させ、より完全な自己」を実現するための手段に過ぎない。さらに言えば、金を儲けて贅沢な暮らしをするのが「良い生き方」という考えもあるだろうが、これは本来的には「物質的豊かさが、心の豊かさに通じる」という考えに立脚しており、実際に全面的に賛成とは言えないとしても、一面の真理であることは否定できない。

 

ところが、そうした本来的な思想から外れ「金儲けそれ自体が目的」と化した「拝金主義」に捻じ曲がってしまっているケースが多いのが、世の現実とも言える。ただ単に「人よりも金持ちになり、人よりも豊かな生活がしたい」という、低次元の欲望が臆面もなく蔓延しているのが、拝金主義というヤツだ。これは、よく言われるように戦後日教組による「戦争反対」、「命を大切にしよう」という洗脳教育にも通じる。「戦争反対」や「世界平和」に異を唱える人は誰も居ないが、現実の世に無法者が沢山のさばっているからには「戦争反対や世界平和といったお題目を唱えていれば、世界に平和が齎される」というのは幻想に過ぎないことくらいは自明である。

 

そのような無法者によって、自国や自国民の生命や生存が脅かされた時には、どうするのか?

子供を守るため自らの命をも犠牲にするのが母親の本能なら、やはり「自国を守るためには、我が身を犠牲とすることも厭わない」はずだから「生きること、それ自体」が目的というのは、やはりおかしな話なのである。

 

確かに貧乏は何かと不自由だから、金があればそれに越したことはないとはいえ、金というものはあくまで「よい生き方」を実現するためのひとつの手段に過ぎぬ。金を貯めること自体が目的では、死を迎えて「なんのためだったのか?」と虚しくなろうというもので、あくまで「良い生き方」を追求するのでなければ、多くの金などは必要ないのである。

 

確かに、タクシードライバーでもビル清掃員でも食うことは出来るが、IT技術者ならIT技術者として食える方が良いに決まっているし、IT技術者として食うにしても上流工程などのやりがいのある(または自らの能力をより発揮できる)業務に携わることが出来れば、単に食うだけでなく仕事上の達成感を味わえる分、より充実した「良い生き方」に繋がる。が、自己実現理論にもあったように、そこに到るためには或いはそれまでの安定を壊して、未知の分野にチャレンジする過程が必要であり、当然のことながらリスクを冒さずにそのような生き方は不可能である。望むべき上流工程の仕事に就けずに下流工程でしかないならば、敢えて野垂れ死にやホームレスを選択することがあったとしても、まったく不思議ではない。

 

そうとなれば後はリスクヘッジの問題だが、これについてはやはり見通しの甘さが多分にあった。「200年に一度の大不況」といわれながら、NTT某に勤めている短い間にも幾つかの面接依頼やらスカウトメールが来ていたから、精々12ヶ月もあれば決まるだろうと踏んでいた。ところが蓋を開けてみると、不景気は益々深刻化している事を実感せざるを得ない事態に直面する。表面的にそれなりにあった面接依頼は、行ってみれば異常にスキル要件が高くなっていたり、採用枠が1名のところに10人以上も面接者が来ている、というのが当たり前になっていた。

 

これだけの「買い手市場」だから当然ながら単価は下落の一途で、全体感として2割程度は下がっていそうだった。あまり「実」がないとは言え、それでもまだ面接依頼やスカウトメールが届いているうちはモチベーションが維持できたが、それも次第に減っていった。たまに舞い込んでくる案件情報も、以前なら考えられないほどハイスキルが要求されながら驚くほど単価が低かったり、またあちこちから同じ内容の案件情報が送られて来たり、あたかも腐肉にハイエナが群がるように多くの下請けが少ないパイを奪い合っていた。毎日のように面接依頼が入り、それに対応するための交通費だけでも出費が嵩むことから、遠方や内容的に魅力のないものは断っていた数年前とは隔世の感があった。

 

そのようにして、あっという間に春から夏が過ぎ、以前に破格の条件だったD社プロジェクトで稼いだ蓄えでなんとか食いつなぎながら、ようやく「上流工程」の仕事が決まった時は、そろそろ朝夕には秋の気配を感じる季節を迎えていた。

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