ところが、世の中の情勢は「自己実現」などという高邁な議論をしている場合ではなくなった。ここでまた、先に否定したマズローを引き合いに出すのはおかしな話かもしれないが、特に自己実現理論に当てはめてみるまでもなく「自己実現」という概念は生きる上で最低限欠かせない「生理的欲求」や「安全の欲求」が満たされた上のものであって、ここにその最低限の「生きるための基盤」すらもが、音立てて瓦解しようかという事態が出来したのである。
2008年に引き起こされた世界的な金融恐慌(リーマン・ショック)の煽りを受けて、日本も「100年(または200年)に一度の大恐慌」に見舞われるなどとは、その時点まで誰もが考えてもみなかった事だったろう。タイミングとしては、ちょうどその「大恐慌」の端緒となった2008年秋に、携帯大手D社のプロジェクトから退き、数人の営業から「今は、凄く景気悪いよ」とは聞いていたものの、その頃はまだ面接依頼や転職サイトのスカウトメールも飛んできていたから「不景気と言っても、IT業界は大丈夫だろう・・・」
などと、例によって楽観的に構えていた。
転職活動を始めてから、これまでと比べ確かに業務案件が少ないという実感は来たが、それまでのD社でのプロジェクトの時間単価が、相場を1000円近く上回っていたという事情により、珍しく懐がかなり潤っていたということも手伝って「1ヶ月くらいは、のんびりしていてもいいし、2~3か月かけて吟味してもいいんじゃないか?」と、まだ暢気に構えていたのである。
そのようにして「しばらくリフレッシュだ」を大義名分にしているうちに、世の不況は段々と深刻の度を増していたようだったが、その期に及んでもまだ「贅沢を言わなければ、入る余地はあるだろう」と考えていた。実際に、贅沢を言わなければ仕事はあった。が、いざ面接で話を聞くと、やはり「贅沢を言わなければ」というのは難しく、やはりそれなりに能力を発揮できて、やりがいを感じられるような仕事でなければ引き受けられない、となってしまうのは仕方がなかった。
この時期以降に来る話は「必須スキル」が非常識なまでに高いものばかりとなった。 例えば、これまではインフラ系であれば、ネットワークとサーバのどちらか専門でよかったのが両方出来ないとダメだとか、それもネットワークが専門であればサーバについては知識があればよいというレベルでは追いつかず、サーバについてもスペシャリストか、それに近いレベルを要求されるといった調子であり、それでいて単価は驚くほど低くなっている。で、そのようなところへ面接に行くと「なんでこんなにスキルの高い人物があぶれているのか?」と驚くほど、ハイスキルの技術者が居たりするのである。
逆にルーチンワークが主体で、スキルアップややりがいは望めそうにない案件の面接にも、義理と微かな期待を込めて行けば「経歴からすると、この仕事は魅力がないし勿体無いですよ・・・」という「逆の理由」でNGを出されるといった事も繰り返された。
そうこうしているうちに、2ヶ月が経過する。IT業界で、いわゆる「上流」と称される業務は、プロジェクト単位の契約になるケースが多いだけに、短期間で終わるケースは珍しくはないが、これまでであれば次の仕事までの間は、おおよそ1ヶ月あれば充分だったが、この時はそろそろ2ヶ月になろうとしていた。不景気の影響で仕事の絶対量が減っていたとはいえ、まったくなくなっていたわけではないが、先にも触れたように適当な業務案件がなかった。
そうしたタイミングで舞い込んできたのが、NTT某の仕事である。同社には、過去に大手町の本社にも面接に行ったし、またSI経由の面接も悉く撥ねられきた経緯があっただけに、この時は工程的にはあまり高くはなかったが、単価の方はまずまずという条件もあって引き受けた。
実はこの話は、面接で聞いた内容があまり興味をそそるものではなかったため、一旦は断りを入れたのだったが、顔見知りの営業の粘り強い説得と単価が悪くないという条件、また他の業務案件が激減して来ていた不安もあって、あまり気乗りがしないままに引き受けたのである。が、やはりこのような中途半端な気持ちで受けたせいか、思った通り仕事内容は興味をそそられずに、早くも安易な選択をした事を後悔することになる。
世の中とは不思議なもので、こうした業務案件の誘いというのは得てして重なってくるもので、この時も気が進まないままに引き受けた直後から、降って湧いたように幾つかの誘いが掛かり
「こんなことなら単価は下がっても、もっといい仕事に就けたはずなのに・・・」
と、益々後悔の念が強まった。
これから先、不景気にドンドンと深刻の度が強まっていくだろうと言う見通しと、今のうちはまだ仕事があるが段々となくなっていくのではないかという不安から「軌道修正するなら早いうちがいい」という信条にしたがって短期での退場を模索していたが、ちょうど現場リーダーともソリが合わずスムーズに身を引くことが出来た。
「とかくこの世はままならぬ・・・」
実際、その通りである。不景気の影響で仕事が激減し、あれだけあった面接依頼すらパッタリとなくなったと思って妥協して現場に入るや、あたかもタイミングを見計らったように魅力的に見えるお誘いが、2つも3つも重なって出てくる。それで「早めの軌道修正」を模索し、ソリの合わない現場に見切りをつけ、いざ再出発を始めようかというタイミングを迎えたところで、またパッタリとお誘いがなくなってしまった。あの魅力的に思えたお誘いも、どれも不透明な形で雲散霧消してしまっていたり、結局は採用に至らなかった(というよりは本気で募集をしていたのかすら、かなり怪しい気がするが)
こうして美味しい口車に乗せられ、安易な決断をしたツケが思ってもみないくらいまでに、大きく跳ね返ってきてしまったのである。
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