2017/05/30
縄文時代(3)
伊予之二名島(2)
高知
国名は、古くは『古事記』『日本書紀』では「土左」、『先代旧事本紀』では「都佐」と記されている。元々は「土左」で和銅6年(713年)の好字令で「土佐」に改められたといわれるが、和銅6年以後も「土左」と「土佐」が混用されている。平安時代中期に至り「土佐」が一般的な表記となったとされる。
「トサ」の語源には、俊聡・遠狭・(浦戸湾を指して)門狭などの諸説があるが明らかではない。土佐藩山内氏の城下町名に由来するが、下記の通り、「河中山」から「高智山」「高智」「高知」へと変化したものである。
慶長8年(1603年)、「高知城(元:大高坂山城)」が鏡川と江の口川に囲まれた地にあったことから、山内一豊が入城した際、真如寺の僧「在川」によって、「大高坂山城」から「河中山城(こうちやまじょう)」と改名された。しかし、この地は洪水が多く、第二代藩主の山内忠義が「河中」の字を嫌ったため、慶長15年(1610年)、竹林寺の僧「空鏡」によって「高智山城」と改名された。その後、「山」が省略されて「高智(高知)」となり、城下町名も「高知」となった。
高知城の周辺は、鏡川などの川に挟まれた地形であった。このため、高知城は当初、「河中山城」(こうちやまじょう)と呼ばれていたが、音を借りて「高智山城」と改め、やがてこれが略されて「高知城」となった。
香川
県名は、県庁所在地の高松市が所属していた郡名に由来する。郡名は、「香河郡」として奈良時代から見られ、その由来は、「かが川」の転で「かが」は平坦な草地を意味するという説。
古来より雨量が少なく、夏期に水枯れする河川が多かったことから、「かれかわ(枯川)」が転じて「かがわ」になったとする説。郡には樺の古木が河川に落ち、郡中がその香りに満ちていたことから、「香川」になったとする説。「香」は温泉の臭気のことで、「川」はその温泉を指しているといった説など多くある。
「香河郡」の例から、音変化後に「香川」という字が当てられたのではなく、「香る川」の意味のままで良いと考えられることから、樺の木の説か温泉の臭気の説が妥当である。
香川名については、奈良時代、郡鄕制であったので、和名抄の中に香河郡香川鄕の地名として出ています。また、地方の神名、五十香河彦の一部の香河(かがわ)から出たものと推論された説もあります。中山城山(なかやまじょうざん、1763~1837、江戸後期の儒者)の全讃志に、香川郡、北都の山奥に樺河(かがわ)という里あり、上古古木の樺ありて異香芬々(ふんふん)たり、其樹下より出る水かほりありて大河に落ちて、中央を流れて海に注ぐ郡中馥郁(ふくいく)として匂(にお)ひ渡れり、因って香河(かがわ)郡といへり、とあり、香川(かがわ)の字と結びつけた説が古くからありました。
香川(讃岐、高松)名の由来
奈良時代、万葉集に、玉藻(たまも)よし讃岐(さぬき)の国は、国がらか見れども飽(あ)かぬ、と詠われています。
讃岐(さぬき)名の由来については、古事記伝に古語拾遺(こごしゅうい)の記事の中に、手置帆負命(たおきほおひのみこと)の孫、矛竿(ほこさを)をつくる、その子孫、今分かれて讃岐の国に住み、毎年調庸(ちょうよう)の外、八百竿をたてまつる、の文を引き、讃岐の語は竿調(さをのつぎ)の意、あるいは竿木(さをのき)を約(つづ)めた言葉ではないかという。
また、福家惣衛(ふけそうえ、1884~1971、大正、昭和期の教育者、郷土史家)は、さぬきとは狭野の国、小平野の多い地形を示す狭野国であろうという。その他、讃岐の語は、真麦(さむぎ、早麦とも)、狭貫(さぬき)、狭之城(さのき)などに由来する多くの説があります。
2017/05/28
善神アフラ・マズダと悪神アンラ・マンユ
2017/05/27
日本書紀(第九段一書)(3)
フツヌシとタケミカヅチ
『古事記』では、国譲りの交渉に成功したのは建御雷神とされる一方、『日本書紀』ではこの場面に主に活躍するのが経津主神で、建御雷神(武甕槌神)が脇役となっている。(『古事記』では経津主神の事にはふれていないが、建御雷神が神武天皇に授けた剣・布都御魂が出てくる。また、建御雷神の異名には「建布都神(たけふつのかみ)」と「豊布都神(とよふつのかみ)」がある。)『出雲国造神賀詞』や『出雲国風土記』にも布都怒志命(経津主神)が登場する一方、建御雷神は見られない。このため、国譲り神話の原形には、経津主神が主役として登場していたという説が挙げられている。経津主神は布都御魂の神格化で、それを祀った物部氏とは関係があるという見解もある。
丸山二郎(1947年)は、建御雷神と経津主神をヤマト王権の発展と拡大に重要な役割を持った物部氏が奉斎していた神々とし、鹿島神宮と香取神宮は朝廷の祭祀を司る中臣氏と関係する以前に、物部氏が東国へ進出した際に成立したものとしていた。一方、寺村光晴(1980年)は、鹿島神宮がヤマト政権・物部氏との関係の下に成立していた香取神宮とは異なり在地性が強いため、本来は土着豪族の勢力下にあったという説を唱えていた。この説においては、物部氏の没落後に香取神宮とは別に新たな軍事と祭祀の基地が要求された結果、鹿島神宮がヤマト王権の勢力下に入った。この過程によって『古事記』や『日本書紀』には、建御雷神と経津主神が混同されたような形になったという。
大和岩雄(1989年)は、『古事記』において大物主神の後裔とされる「建甕槌命」(三輪氏の始祖・意富多々泥古命の父)が建御雷神の原形で、国譲り神話に見られる天津神の「建御雷神」は、中臣氏(後の藤原氏)の氏神とされるようになってから成立したものとしている。この説によると、鹿島に祀られている神は元々は多氏が奉斎していた大物主系の建甕槌命で、道祖神的な性格を持った甕の神であったが、中臣氏が「雷」の神として剣神・武神という性格を持たせて、国譲り神話に挿入した。
宝賀寿男は、『古事記』の建甕槌命は『古事記』や『旧事本紀』に見られる、その系図や他氏族との比較から、三輪氏の祖神で意富多々泥古命の曾祖父に位置づけた。また三輪氏と多氏は、それぞれ海神族と天孫族の出身であるとし、系図、習俗・祭祀体系からも、この二氏は全くの別族であり、建御雷神は最初から中臣氏(山祇族)の氏神であるとする。この説によると、山祇族は火神・陸蛇(竜、オカミ)・雷に縁由があり、紀国造の系譜に見るように迦具土神を始祖としており、また中臣氏上祖に「伊都、市」や「速」とあるように、祖系に複数の雷神が見えることから、建御雷神は天児屋命の父・興台産霊命と同一神であり、物部氏が奉斎した剣神たる経津主神(ここでは天目一箇命と比定)と、中臣氏が奉斎した雷神たる武甕槌神とは別の神とする。なお『神道大辞典』には「武甕槌神と経津主神とは同神とする説があるが、なほ別々の二神の名と見る方が妥当であらう」と記載されている。
タケミナカタ
建御名方神は『古事記』では国譲り神話のみに登場している。大国主神の子でありながら、その系譜には名前が見られず、国譲りの場面にも唐突に出てくる。(前述の通り『旧事本紀』では、ちゃんと大己貴神の系譜には記述があり、大己貴神と高志沼河姫の子となっている。)そればかりでなく、『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』にある出雲国の伝承にも、一切登場しない。この理由から、建御名方神を国譲り神話に挿入された諏訪地方の土着神、または『古事記』の編纂者もしくは朝廷側が造作した神とする説が挙げられている。なお、過去には建御名方神が伊勢津彦、御穂須々美命、天津甕星等のような神話が似ている神々と比定されることがあった。近年では、長髄彦・天八現津彦命と同一視する見解もある。
『古事記』や『旧事本紀』に見られる建御名方神の敗走の話が諏訪大社の起源譚として認識されるようになったのは『諏方大明神画詞』(1356年)成立以降で、諏訪ではこれと異なる神話が伝えられている(諏訪明神こと建御名方神の洩矢神との覇権争いの話など)[。この神話は古墳時代に起こった出来事を反映しており、『古事記』の説話のモデルともなったと考えられていたが、この伝承自体があまりにも聖徳太子と物部守屋の争い(丁未の乱)にまつわる伝承と似ていることから、中世の聖徳太子伝承の影響を色濃く受けた、あるいは聖徳伝承を基にして創作された神話であるという意見も近年になって出て来ている。
『古事記』では、建御名方神が無様な負け方をした神として描かれているが、中世伝承では神功皇后や坂上田村麻呂に力を貸した立派な神とされ、平安時代末期から香取神宮や鹿島神宮に並ぶ軍神として広く信仰された。中世前期の諏訪大社の縁起は当時広く読まれていなかった『古事記』や『日本書紀』の影響なしに成立したものと考えられている。
諏訪大社は諏訪湖の南にある上社(かみしゃ)と、その北にある下社(しもしゃ)の2社から成る。建御名方神(諏訪明神)を祀る上社では、かつて大祝(おおほうり)と呼ばれる神官が神の神体とされ、現人神して崇められていた。この大祝は神の身代わりであるがゆえに在職中に穢れに触れてはならず、諏訪郡から出てはならないとされた。『古事記』では、建御名方神が「この地を除(お)きては他処(あだしところ)に行かじ」と誓う場面は、この掟に関係するという説はある。ただし、大祝を権威や権力から超越した現人神とする信仰はそう古くなく、鎌倉時代に起こったもので、大祝の郡外不出の掟も『古事記』とは直接関係がないという説も挙げられている。
国譲りの舞台
宝賀寿男は、本来の高天原(所謂邪馬台国)は北九州の筑後川中・下流域にあり、天孫降臨の地は現在の怡土郡・早良郡(現糸島市、旧伊都国)辺りで、葦原中国とは海神信仰の強い那珂郡(奴国)のことであって、現在でいう出雲国ではないとする説を提唱した。実際に奴国と想定される博多地域では、志賀海神社や安曇氏など海神族の色合いが濃く、出土した金印の鈕も海神族のトーテムである蛇である。また事代主神と建御名方神の国譲りは、『日本書紀』の神婚譚にも見えるように、実際には現在の奈良県(旧大和国、大神・磯城周辺)であったとされる。実際に『出雲国風土記』には、事代主神も建御名方神も登場しない。
他には、記紀神話における「出雲」を現実の出雲国だけではなく、ヤマト王権に帰順しなかったと思われる地域・部族の総称とする説もある。