IV 日本の食の特徴:たべものの「こく」
「コク」という言葉は、日本では非常によく使われる。「コク」は日本の食嗜好を理解するための最も重要なキーワードの1つである。特定の成分や物質ではなくて複合的な味わいである。食べ物の味わいに「厚みがある」「ボディ感がある」「濃厚である」などがやや近い表現である。「コクのある」という形容詞は、熟成、豊富な経験、豊潤、円熟などからもたらされる複雑な深みと浅薄でない魅力のようなものをイメージして使われる。「コクがある」というのは料理を褒める言葉である。曖昧ではあるが、おおよそのニュアンスを国民が共有している。
一般的にコクがあるという場合、多くの成分が複雑に絡み合って、味わいの厚みをもたらしている場合を指すことが多い。単独の味が強く感じられてしまうとコクでは無くなる。酸味を加えると食べ物はさっぱりすると言うが、酸味の突出でコクが消えるとも言える。
コクがあると認められている食材や料理はいくらでもある。フォアグラ、あんこうの肝等の内臓、生クリーム、チーズ、バターなどの乳製品、生ウニ、キャビアやからすみ、イクラなどの魚卵。味噌や醤油、カレー粉、マヨネーズなどの調味料、霜降り牛肉、鮪のトロなどの動物脂、日本で流行しているラーメンの複合的なダシや背脂など無数にある。
コクの特徴に、時間的および空間的な拡がりがある。空間的な拡がりは、口のなかの多くの部位や神経経路で味わいが感じられていることで説明できる。食品を口にしたときに、舌の先ですぐに感じられる甘味や塩味は鼓索神経を介した味覚、舌の奥やその両側で感じるうま味や油脂のおいしさは、舌咽神経で伝えられる味である。舌触りには舌だけでなく歯茎なども動員される。味わいの感覚や部位が総動員されることが、コクにとって重要のようである。
コクには時間的な拡がりも大切である。口を近づけるだけで香る匂いから始まり、舌の前半部分で瞬時に立つシャープな味わいと、一呼吸おいてから舌の奥で感じられる味わい。さらには口のなかに留めている間に、じわりと顔を出す味わい。飲み込んでからも続く余韻のような心地よい味わい。時間をかけて得られる味わいが十分に納得させられると、コクがあると強く感じる。
日本人の使うコクという言葉には様々な対象やニュアンスがあるが、整理すると三層の構造をしていると著者は考えている。中心部はエネルギーに富む油脂や砂糖の甘味。栄養素そのものの味で、動物ならば誰でもうまいと感じる。実際に、食品開発の立場から見ると、砂糖と油脂は食品にコクを与える切り札である。したがって、コクの本義は生きてゆく上で生理的に大事な栄養の味わいであると言える。動物は、これらにやみつきになる。いわゆる脳の報酬系を刺激する物質である。
その外側に第2層のコクとして、粘度、魅力的な香り、重厚感、うま味、濃厚な色調などが、栄養素のリッチな分厚い感じを想起させるコクとして存在する。それ自体は「中心のコク」のように強いコクではないが、人間の食体験によってコクを強める作用がある。いわば、学習によって濃厚さを連想する仮想的なコクである。
最も外側の第3層には、実体を離れた比喩的なコクが位置する。コクのある演技とかコクのある表情とか、コクのある生き方などである。感性に依存する抽象の世界であり、極度に洗練された吸い物の風味のコクなどは第2層と第3層にまたがるのかも知れない。
ラーメンやカレーや焼き肉などは、中心部のコクを有する。誰にでもわかりやすい濃厚さである。一方、日本の伝統的な料理のコクは香りや食感、色合いなどが関わる第2層に集中している。第2層や第3層のコクは、外側に行くほど実体が薄れる。極限まで削ぎ落として無駄なものがなくなったなかに残る豊かな味わいを高い品位として、日本の料理は重視してきた。誰にでもわかるような濃厚なコクを高く評価してこなかった点は、欧米の料理と大きく異なる。日本の料理が「引き算の味わい」であるという言葉はここから生まれる。
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