2017/09/14

エジプト文明



●ラムセス2
 BC1290年、エジプトで最も有名なラムセス2(Ramses)が即位した。

彼は66年間在位し、90歳で亡くなるまでに111人の息子と69人の娘をもうけた。

1王妃が美人のネフェルタリ(Nefertari)で、アブシンベル小神殿に祭られている。

 ラムセス2世は、ヒッタイトが勢力を伸ばしてきた北シリアに侵攻した。

ヒッタイト王ムワタリはすぐに反撃し、BC1285年にカデシュの戦い(Kadesh)が起こった。

エジプト軍は初戦で有力な軍団を撃破されて苦戦するが、ラムセス2世の奮闘によって辛くも勝利を収めた。

しかし兵力の消耗が激しいため兵を引き、その後両国は史上初の平和条約を結んだ。

彼は、ヒッタイト王女を妃に迎えた。

 また、エジプト南部のヌビアも平定した。

これを記念して造営されたのが、アブ・シンベル神殿である。

この神殿はアスワン・ハイ・ダムの建設の際、水没の危機に晒されたが、ユネスコが神殿を移転して危機を救った。

これを機に、世界遺産の制度ができた。

 彼の治世中、出エジプト記に登場するモーゼが、イスラエル人奴隷を連れてエジプトを脱出したといわれている。

末期王朝時代
 エジプトは徐々に衰退し、シリア・パレスチナから撤退、シナイ半島も喪失した。

BC1085年、混乱するエジプトを再統一したのが軍司令官スメンデスで、タニス(現在のサン・イル・ハガル)を中心に第21王朝を開いた。

しかし、上エジプトはテーベのアメン神官団が支配し、国内は分裂状態になった。

まもなくリビア人の侵入が始まり、エジプトの文化は破壊されていった。

これを救ったのがヌビアのクシュ王国のピイで、BC728年に第25王朝を開いた。

ヌビア人の王は70年間エジプトを支配し、エジプトの復興に尽力した。

彼らは、ブラックファラオと呼ばれている。
 
BC7世紀になると、オリエントで勢力を伸ばしていたアッシリアがエジプトに侵攻してきた。

BC673年、アッシリアの傀儡政権26王朝が始まった。

BC612年、アッシリアが滅亡するとエジプトは独立を回復するが、BC525年にはアケメネス朝ペルシアに征服された。

ペルシアの支配は、200年続いた(2730王朝)。

 BC332年、マケドニアのアレクサンドロスがエジプトをペルシャの支配から解放し、アレクサンドリアを建設した。

アレクサンドロスが亡くなると、その部下のプトレマイオスがプトレマイオス朝を開き、エジプト人のファラオの時代は終った。

クレオパトラ
 プトレマイオス朝によるギリシア人の支配は300年続き、BC51年に最後の女王クレオパトラ7が即位した。

エジプトは内紛のためすっかり衰え、ローマとの同盟関係でやっと独立を維持していた。

彼女は、ポンペイウスを追ってエジプトに来たカエサルを誘惑し、愛人となった。

エジプトは束の間の安泰を得るが、カエサルは暗殺されてしまう。

 ローマでは第2回三頭政治が始まり、カエサルの部下マルクス・アントニウスが東方地域を担当した。

彼はトルコ南部のタルススでクレオパトラと出会い、その美しさに心を奪われた。

ローマ市民は、ローマを留守にしてクレオパトラにのめり込むアントニウスを見放した。

 アントニウスとクレオパトラ連合軍は、カエサルの後継者オクタウィアヌスにアクティウムの海戦で敗れ、2人はアレクサンドリアに追い詰められて自殺した(BC30年)。

 プトレマイオス朝は滅亡し、エジプトはローマ皇帝の直轄領となった。

ヒエログリフ(hieroglyph
古代エジプトで使われた文字で、エジプトの遺跡に多く記されている。

ナポレオンのエジプト遠征の時に発見されたロゼッタ・ストーンを、フランスのシャンポリオンが解読して読めるようになった。

ロゼッタ・ストーンには、ヒエログリフとギリシア文字、エジプトの民衆文字が刻まれていた。

カルトゥーシュ (cartouche)
ヒエログリフで書いたファラオの名前を楕円の枠で囲ったもの。

カルトゥーシュは小銃の実包を意味するフランス語で、英語ではカートリッジ (cartridge)

楕円の形が似ているため、カルトゥーシュと呼ばれるようになった。

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