2017/09/13

中華思想(3)


 中華思想とは、中国人の自負である。

華夷思想とも言う。

四大文明の一つである黄河文明以降、長きに渡って中国の歴代王朝は東アジアの先進国として君臨し続けた。

その歴史の中で、彼ら(漢民族)は「自分達が世界の中心であり、自分達の文明こそが最も進んだ文明である」という思想を持つに至る。

これが中華思想である。

異文化、異民族を蔑視する思想として、現在では主に批判的に用いられる。

中国」という語は、大昔には「地理的中心」くらいの意味だったらしい。

まだ国家の概念が希薄だった時代の話である。

これが中華思想と結びつくことで「世界の中心にある国」というニュアンスを持つようになる。

自分達の国=中国」であり「自分達=世界の中心」なのだから当然といえば当然だ。

別に自国を美称で呼ぶこと自体は構わないのだが、その呼び方に感化されてしまった国がある。

日本と朝鮮である。

日本と中華思想(その一)
中華思想においては、周辺諸国は蛮族の国であり、教化の対象として見下される。

これに苦労させられたのは周辺国である。

日本もその例外ではなかったが、幸いにして日本海があった。

世界有数の荒海である日本海は、強大な中国王朝の圧力を大いに減じてくれた。

故に日本は中国から距離を置き、天皇を頂点とした日本式秩序を成立させることが出来たのである。

ありがとう日本海。

だが古代より近世に至るまで、日本の知識人にとって中国、特にその文化は憧れの的であった。

距離の遠さが、皮肉にも中国への憧憬を強めてしまったのである。

特に江戸時代に入って、お人よしの日本人は儒教の題目を大真面目に捉え「中国のような素晴らしい国」を目指して邁進することになる。

日本と中華思想(その二)
「中国は聖人の国であり、日本より優れた大国である」。

江戸時代に流行していたこの認識に異議を唱えたのは、山鹿素行である。

儒学者として儒教や中国の歴史を熟知していた山鹿は「中朝事実」という本を書いて中華思想からの脱却を目指した。

曰く「日本こそ中国(世界の中心)である

こうして蒔かれた中華思想脱却の種は、明治時代以降の脱亜志向という形に芽吹いていくことになる。

日清戦争が、それに拍車をかけた。

崩壊寸前の清王朝の現実は、日本人が長らく抱いていた中国への幻想を打ち砕くには十分すぎた。

そして、彼らは確信した。

自分達こそアジアの一等国だと(清王朝が漢民族じゃないことは、日本人にはどうでも良かったらしい)

その後、日本人は意識的に「中国」という表現を避けるようになる。

千年以上に渡る中華思想から開放された日本人の意気は高く、自信は史上最高潮に高まっていた。

故に起こった悲劇は、皆さんもご存知の通りである。

日本と中華思想(その三)
日本は敗戦し、中国は戦勝国に名を連ねた。

「中国」と言う呼称が復活し、かつて使われた「支那」は差別的として排された。

この点をもって「日本は再び華夷秩序に組み込まれた」と憤る人もいる。

もっとも日本人には、もはや自分達が「東夷」であるという意識はない。

中国人がどう捉えるかは知らないが、国号に「中華」を掲げた時点でそれはもう固有名詞だ。

欧米は「CHINA」と呼び続けているが、それを言い出すときりがない。

日本だって「日ノ本」を名乗り国旗に太陽を掲げている。

中国は星だから、迫力では負けてない。

朝鮮と中華思想
中国と地続きであった朝鮮では、日本と異なり強大な中国王朝からの圧力に抗うことは不可能だった。

ここから中華思想によって「東夷」の烙印を押された朝鮮人の奮闘が始まる。
彼らは儒教文化を受容し、自分達を中華文明の一翼を担う物として「小中華」を自任した。

小中華思想の始まりである。

小中華思想においては、中華文明との同化によって文明の価値が決まるとされ、朝鮮人は日本人以上に中国、特に漢民族への憧れを募らせていくことになる。

かくして彼らは、自分たち朝鮮民族こそが漢民族に次ぐ第二の民族であり、その他周辺民族を蛮族であると見なしていく。

この世界観は近代まで朝鮮人に脈々と受け継がれてきたが、その過程で何度も彼ら自身を苦しめた。

漢民族以外の王朝の成立である。

蛮族であるはずの異民族を宗主としなければならなくなった彼らは、様々な方策を用いて自己矛盾と戦った。

その後、朝鮮人は華夷秩序の外にある欧米諸国の存在を知り、日本や清王朝との交流を通して民族主義に目覚めていく。

ベトナムと中華思想
ベトナムも中国と地続きであったため、歴代の中国王朝に攻め込まれている。
漢、六朝(三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称)、隋、唐、南漢、明に直接支配された経験がある。

また、直接支配されていない時期にも中国王朝から冊封をうけ、その藩国となっている。

モンゴル帝国の撃退など、実際の戦に勝っても最終的には冊封を受けている(冊封とは、名目的な君臣関係を結ぶことである。ベトナムに限らず、中国王朝の周辺国は戦いに勝っても元々の地力では敵わないため、メンツの部分では中国に譲り、実利をとるという形式で戦争を終わらせることが多い)

このようにベトナムは中国の多大な影響を受けており、中華思想も取り入れた。

ベトナムの中華思想は「南国思想」と呼ばれる。

北の中国に比肩する存在として自らを「南の中国」と称したのである。

ベトナムは、中国に対しては冊封国として振る舞う一方で、周辺国に対しては「中国」として臨もうとした。
  http://dic.nicovideo.jp/ 引用

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